芝 幹雄
1983年多摩美術大学デザイン科卒業、GKインダストリアルデザイン研究所に入社。1990年株式会社GEO設立に参加、医療機器の設計とデザイン、その他産業機械の設計を手がける。2007年3月独立、株式会社SHIFT設立。同社代表取締役。
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前回、さまざまな性格のデザイン事務所が存在する昨今において、デザイン事務所を選ぶにはまずデザイナーとの対話が重要であると思い、1980年代に起こったデザイン界の大きなうねりからお話した。今回はその続きである。筆者が経験してきた話ではあるが、正確な史実と言えない部分もあるかもしれない。その点も踏まえて、いろいろなデザイナーと話をしてみてはいかがだろうか。
これも20年以上昔の話である。とある国際デザイン会議で、ある巨匠が放った言葉に上司たちは狂喜乱舞していた。その国際会議が何であったかは今となっては確かめようがない。であるから「とある」としか言えない。巨匠とはマリオ・ベリーニのことであり、その巨匠が放った言葉はたぶん「マーケティングなんかくそ食らえ」であった。これも「たぶん」となってしまうが、イタリア語でなのか、あるいは英語であったのか、いずれにしろ正確な発言内容は分からない。しかし、あれだけGKの社内で話題になっていたのであるから、でたらめではないはずである。
また、彼の巨匠ベリーニがそう発言したことについて、当時駆け出しのデザイナーであった筆者にも十分理解ができた。では何故ベリーニはそのように発言し、また何故その言葉に上司たちは狂喜乱舞していたのであろうか。
前回お話したように、1980年代以前はプロダクトデザインにとってモダニズムは揺るぎのない屋台骨であった。しかし、「揺れ」はいろいろなところから起こっていた。
その1つが、マーケティングデータをデザインに反映させるというアメリカの合理的なデザイン手法であった。今の若いデザイナーにしてみれば「なんで?」ということになるかもしれないが、当時のデザイナーにとってみれば、その流れは脅威に近いものであったかもしれない。
特にヨーロッパのデザイナーにとっては、さらなるものであったと思う。まさにモダンデザイン発祥のヨーロッパではモダニズムの思想に従いながら、その表現がデザイナー個人の才能に委ねられるといったスタイルが確立し、またそれを守ろうとしていたのである。ところが、そのデザインの手法をさらに商業的に合理的にという動きが、アメリカで起きていたのである。
もともとモダニズムの源流が共産主義的な思想のもとにあったことは前回述べたとおりである。より多くの人々に同質の価値を配分しようというその考え方が、大量生産により、多くの人々に同じ価値を与えようとした産業革命と一致するのは当然のことである。しかしその前提としてあるのは、あくまでもトップダウン的な考え方である。高度な技術と才能を持った人間がその原型を考え決定し、それが大量に生産されて世の中に行き渡ることを意味するわけである。その考えの中では技術を持たず、才能のない人間が価値のないものを大量に生産することは許されていない。
ところがアメリカで起こった考えは、これらを「真っ向からぶち壊してしまう可能性がある」と当時のデザイナーたちは考えたのである。その後、実際にぶち壊された。根っこが共産主義的であるのか、資本主義的であるのかの違いなのであろうか、とにかくモダニズムの思想の中にマーケティングの思想を取り入れるには相容れない部分が多々あった。何かをぶち壊さなければ、他の新しいものを受け入れることができない、そんな感じであったように思う。
しかしそんなことはおかまいなしに、デザイン界は一気呵成に動きだした。そしてマーケティングデータをデザインに反映させることがデザイナーにとって当然の業務とされるようになった現在、あのときに未消化のままの問題がデザイン界にジレンマとして存在しているように思えてならない。「マーケティングデータがすべてというのであれば、デザイナーは何をすればよいのか」。そのような疑問を抱え、「自分たちに絵が描ければお前たちデザイナーなんかに用はない」と企画の担当者から言われてしまうデザイナーはいないだろうか。より多くの人々の意見を取り入れようとして、デザインはある意味での輝きを失い、尊敬され得るデザイナーの存在もその必然性がなくなった。
そのことを危惧した巨匠の叫びであったと、今でも筆者は理解している。
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