「新世代デザイナーたちのモノ作り」の第2弾は東京・千駄木を拠点とするNOSIGNER氏。NOSIGNER氏のデザインには、斬新さと同時に安心感がある。この安心感はどこから来るのだろう。自らの内なる自然と対峙していくことで、氏は人間の根っこの部分に近づこうとしているのかもしれない。
NOSIGNER
「見えない物をつくる職業」という意味をもつNOSIGNER(ノザイナー)として、匿名でデザイン活動をするもの。科学・教育・地場産業など社会的意義を踏まえたデザイン活動を通し、幅広いデザイン領域で国際的な評価を受けている。
http://www.nosigner.com/ |
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●1/100からではなく、100/1から建築を始める
−−まず、今日に至る経緯を振り返っていただけますか。
僕はもともと建築を学んでいたのですが、今の活動はたぶん大学院の頃に考えていたことから始まってます。
例えば建築を考えるとき、都市から建築を発想する方法もあるし、建築を建築として考えるという方法もあるし、人から見た建築を考えるという方法もあるわけです。僕が学生時代の2004年頃は、MVRDV、レム・クールハースといったオランダの建築が流行っていて、彼らが取っていたのは非常にシステマチックな建築の方法でした。都市と経済、社会のシステムとして純度の高いものを作る、都市的な状況から建築を作る、といった大きな流れがその背景にありました。でも当時僕にはその流行に対してなんとなく拭えないモヤモヤ感があった。ある切り口ではそれが正しいことは分かるんだけど、どこか相容れないものを感じていた。ひょっとしたらそのミッシングピースは「人」なんじゃないだろうか、ということを当時考えていました。
多くの建築は、設計時にまず1/100の模型から作ります。あるときは、そのまま1/1の実物になる。そんなふうに、1/100スケールから建築は始まっていくんだけど、考えてみれば、人間には1/1よりも微細なものを感じ取るセンサーが備わっているわけです。
例えば今座っているこの椅子が化粧合板なのか無垢の木なのか、人間のセンサーは感じることができる。これは1/1の図面や模型にも表現し得ない、目に見えないレベルのものです。
1/1でも表わせないぐらいの微細なセンサー、それを単位で言ったら100/1くらいなんじゃないかなと。そこで100/1スケールから建築を始めることはできないだろうか、と大学院生のときに思っていたんですよ。1/100からではなくて100/1から始める。
100/1から始めようとすると、まずはすごく簡単で小さなことからトライするのがいいんですね。コップを持ったときの感じとか、その温度のような微細な感覚です。そういう微細なところを考えていくには、小さいもののプロトタイピングのほうが都合がいい。
要するに、100/1から考えるとお箸と建築の違いがあまりなくなってくるんですよ。そうすると、お箸も作れないのに建築が作れるというのも変な話だということになってきてですね(笑)。それでプロダクトにすごく興味が出てきて、いろいろなコンペに出したりしていました。
−−オランダの建築に代表されるシステマチックな潮流に対して違和感をもたれ、1/100のスケールモデルからではなく人が感知できる0.01(100/1)からモノを見始めようという発想をもたれた。すると箸も建築も等価値になっていったということですか。
人がその状況をどう捉えるかというのは複合的な体験ですよね。建築だけでも、テーブルだけでも、その体験を作ることはできない。そういう意味で建築とテーブルの領界は接点を持てるというか、やわらかくつながっていっていて、その「つながり」自身がデザインなのかもしれません。
「つながり」の延長が建築になってしまう、テーブルになってしまうということはよくよくあるんですけど、逆に職業が専門化してテーブル屋さんや建築屋さんになってしまうと、建築がテーブルになりうるとか、テーブルが建築になりうるという想像力を持つことがなかなかできなくなると思います。
例えば僕の尊敬するバックミンスター・フラーという人は、専門性をすごく批判した人です。専門家であるということの弱さ。それは人間に限らず、生物の進化の体系でも極度に専門化された種が生まれると、状況が変わったときにあるきっかけでその種が滅びる、ということがよくあるわけです。専門分化することによって種は絶える。
僕もどこかで、専門家にはなりたくない、という思いがあるんです。テーブルを作るときでも、その周囲を踏まえた上でテーブルを作る人でありたい。プロの技術を持った素人でありたい、ということかもしれません。
−−「デザイナー」という言葉は本来とても広義で、欧米では1人が、それこそ建築から家具、インテリア、小物までトータルにデザインしていたと聞きます。日本の場合は産業が縦割りで分業化が進んでいるので、建築を作りたくてもテーブルや家電を作っている人もいらっしゃるかもしれませんし、ご自分のいる世界からはみ出せない状況なのでしょうね。
一度そういう状況が自分のプロフェッションだと思うと、はみ出したいと思わないのかもしれないですね。「自分はプロダクトデザイナーだ」と言うと、プロダクトを作ることが自分の仕事、領域だということで守られる部分もありますが、逆に見失う可能性も多いです。
例を挙げると、なぜ企業がプロダクトデザイナーに仕事を頼むのか。端的には、「優れたプロダクトデザインがほしいから」と考えますが、僕はこれは本質ではないと思っています。
依頼者は多くの場合ある問題を抱えていて、プロダクトデザインにその可能性を感じている、という状況で依頼をしてきます。そうであるならば、状況はもっと柔軟で、彼らが想定している手段ではない解決策があるかもしれない。プロダクトデザインをやめて空間をつくりましょう、あるいは素材開発をしましょう、という他の提案が彼らにとってベストな解答である可能性は、往々にしてありえますから。もし自分の領域が専門分化することで、その他の可能性を全部閉ざしてしまうとすると、これはとても不合理なことですよね。
−−NOSIGNERさんのスタンスは、そもそも資質がそうであったのか、それとも状況分析によるものなのか、どちらなのでしょう?
両方です(笑)
まず外的な要因としては、人間と社会に、デザインの可能性を改めて感じている、ということがあります。ここ20年ほど、日本ではアイコンを作ることがデザイナーの仕事だと思われてきた。けれども、それだけをデザインと呼ぶ時代ではないと、みんなが気づき始めています。
デザインは、ある状況を与えられたときに、それを編集して最適化する、人間の編集能力の現れです。それが可視化されると「デザイン」と呼ばれる。
だから今、いろいろな領域の人が、再構築して効率化することを、デザインと呼んでいます。それは、デザインという言葉の意味がこの数年で大きく広がったからですね。デザインは、デザインの外の領域でこれから面白く発展していくはずです。
もう一つ内的な要因として、自分がデザインを追う中で気づいたことがあります。「NOSIGNER」という名称が出てくる経緯なんですが、学生時代に「design」という言葉の語源が気になって調べていくと、「sign」という言葉に集約していくのが分かりました。「sign」つまり「記号」や「形」がデザインの語源にあるわけです。それはもっともだなと思う反面、僕にとってそれはとても残念な語源だったんですね。なぜなら、僕は目に見えない部分がデザインを作っている、という気がしてならなかったからです。
目に見えないもの、とは、デザインが生まれる背景の部分と言い換えることもできます。環境や時間、性質など、不可視な領域がデザインの範疇になってきている。例えば研究者がシステムデザインとかニューロデザインとか、自分たちの領域にデザインという言葉を使うとき、多くの場合皆さんが考えていることは、可視の何かを作ることではなくて、不可視であり無形のものを踏まえて最適化すること。これをデザインと呼んでいるわけです。
そんな目に見えないもののことを「no sign(ノーサイン)」つまり「nosign(ノザイン)」という言葉で表わすことにしました。僕のやりたいことが名前になるのではないかと。designという言葉と対になるデザインの周囲にあるものに言葉をつけることができるんじゃないかと思って、NOSIGNERという職業名を思いつきました。
−−「sign」に「no」をもってきた。
はい。ちょうど大学院生くらいのときにその言葉に気がついたんです。僕はNOSIGNERという言葉にあるように、無形を踏まえて形を作る仕事をしたかった。NOSIGNERになりたい、そういうデザイナーが僕の理想形だなと思っているんですよ。活動を始めるときに、こういうデザイナーでありたいという理想の名前を自分自身につけてしまったわけです。そうやって大きく出て、背水の陣で退路を断ったというか(笑)。
−−後に引けない感じですね(笑)。
この名前を選んだことによって引くことができなくなった。自分の理想に走らざるをえなくなったんですよね。これは結果的によかったと思っています。
−−大学を卒業後、就職されてから独立なさったのですか。
いや、一度も就職していないです。
−−コンペなどで名前をアピールすることは可能だと思いますが、建築にしてもプロダクトにしても経験がないとなかなかクライアントさんが発注してこなかったのではないですか。
僕が独立したのは大学院のときでした。皆さんこれをリスクだと思われるんですけど、僕の考えでは逆なんですよ。在学中に独立をするということは、僕にとってはリスクヘッジだったんです。だってわらじは二足あるんですから、片方が燃えつきてももう片方のわらじで生きていくことはできるはずだと思った。もし、わらじが一足しかないのにそれをやってしまうと、燃え尽きたら歩けなくなるわけです(笑)。とにかくやってみて、うまくいかなかったら就職するつもりでした。
−−実際に仕事として成り立っていくきっかけは、どういうものでしたか。
僕の最初のクライアントは徳島県の木工組合でした。コンペの受賞がきっかけで徳島に行って、そこの職人さんたちと知り合いになって、その後こちらから勝手に、彼らの状況をどうやったら良くできるのかという提案をしていたんです。それがきっかけで仕事を依頼してくれるようになりました。ブランド開発事業が始まるタイミングで、僕にデザインのプロデューサーになってくれ、と頼んでくれたことで、僕は卒業後の仕事がとりあえず見つかってしまったんですね。
−−徳島の方たちはNOSIGNERさんに何を期待したのでしょう? 新しい風を吹かせたかったのでしょうか。
どうなんでしょう。僕は当時NOSIGNERでも何でもない、一介の学生でしたからね。当時の彼らの無謀とも言える勇気には、感謝の言葉もありません。
徳島の木工は、もともと鏡台に代表される嫁入り家具から発展しました。ただ、嫁入り道具の文化がなくなって需要が激減してしまった背景があります。彼らの高い木工技術を絶やさぬように、次のチャンネルを探すお手伝いをしています。
●モノのルートへ向かいたい
−−NOSIGNERというお名前から、例えば無印良品は「無印」という記名性があります。そういう戦略もお持ちなのかとイメージしていましたが、違うのですね。
そうですね〜。無印良品などに見られるアノニマスデザインと僕がやりたいことは、けっこう違うんじゃないかなと思っています。
例えばコップという「種」の進化図があるとして、その樹形図はこれまで脈々と大きな領域を作ってきていますよね。大きな枝をはった「種類」もたくさんあって、例えばマグカップという領域の大きな幹があったりするわけです。
もう十分に成熟して育ちきった「種類」から、そのマジョリティの文脈に則ってまっすぐ作るのが無印良品がやっている手法です。だから無印の商品は、それを強烈に新しいものだと感じられる必要はないんです。
僕が試みているのは、その樹形図のルートの部分を探すことなんです。脈々とあるコップの枝をずーっとさかのぼっていくと、例えば手で水をすくうというと行為に行き着くかもしれない。この行為から器の形を探すことで、もっと飲みやすくて安全なものができるのかもしれない。ルートを追っていく中で、進化の可能性があるのに芽生えていなかった。そういう、できる限り幹に近い枝を探しています。
−−成熟した中で差別化を追っていくわけではなく、モノそのもののルートに立ち返る。
それは最初は突飛なものに見えるかもしれません。でもその後、その枝をきっかけに進化していくかもしれないというような、そういうルートを探していきたい、という思いは常にあります。
−−現状での仕事の配分はどうなっていますか。
今はプロダクトデザインとブランディングが多いです。僕が仕事を頼まれるのは、ある新領域や新ブランドを立ち上げるときに、「どうしたらいいだろうか?」というざっくりした相談が多いんですよね。「テーブル作ってください」ということより「困ってるんだけど、どうしましょう?」みたいな(笑)。
今いくつかの地場産業でデザインのプロデュースをしているんですけど、どこも「その背景の戦略をデザインと一緒に組み立ててください」という依頼が多いですね。
−−自分たちだけでは展開しようがなくなっているので、NOSIGNERさんの“ルートを見る”という発想で新しい双葉を見つけてもらいたいということなのでしょうか。
そうなのかもしれないですね。不況云々ということよりも、時代が、大きくは情報化によって急激に変化しました。時代が変化すると当然社会が変化するから、ニーズも変化するわけです。
今まで100年ずっと同じ事業をやっていた人たちも、「この事業体系、ターゲッティングで合っているのかな、ひょっとしたら間違っているんじゃないのか?」という疑問が芽生え始めているのかもしれません。
疑問が芽生えるだけではなくて、不況が重なったので、今の市場がなくなって困っているという企業もたくさんいるわけです。そういう企業も、まだ体力があるところは変わろうとするんですね。ただ、どうやって変わっていいのか分からないという中で、さっき言った専門分化された視点はなくて、包括的な視点を求める人が増えているのかもしれない。だから頼んでくれるんじゃないかなと思います。
ただ、僕は「包括的な視点を持っているから専門化されたことはできませんよ」というデザイナーにはなりたくない。これはある種のワガママかもしれないんですが、例えばプロダクトデザインをやるならプロダクトデザインについてきちんと勉強して、プロとしての技術はあるけど、でもプロダクトデザイナーではない、というスタンスでありたい。グラフィックデザインでも、同じようにきちんとグラフィックデザイナーとしての技術や評価は持っているけどグラフィックデザイナーではない、という状況を作りたいんです。
−−監督とプレイヤーの関係に例えますが、プロデューサー=監督で、実際に線を描き手を動かす人がプレイヤーだとしたら、NOSIGNERさんは監督ですか。
監督兼選手でありたいです。将来監督になるかもしれないけど、今なるわけにはいかない。今監督になってしまうと、自分の手でどこまでいけるのかの研鑽を積めないですから。監督として誰かにデザインを頼むときにも、元一流選手だと聞く側も耳が違うかもしれないし(笑)。
例えば優れた指揮者はプロレベルにピアノが弾ける人が多いように、自分の領域でちゃんとプレイできる力があるから監督ができると僕は思っていて、プロデューサーと自分を定義してその枠から出ないのであれば、それはそれで専門分化されていることになってしまいますからね。
−−コンセプトを立てて誰かにお願いするより、自分で手を動かしたほうがより理想に近づけるのでしょうか。
僕の知っている優れたクリエイターは皆さんプレイヤーとしても一流で、プロデューサーとしての能力をちゃんと持った上でプレイヤーをしている方ばかりだと思っています。僕の恩師もそうでした。
僕はあえてそういうスタンスを分かりやすく名前にしているけれど、僕がそうだということより、優れたクリエイターはすでに僕よりよっぽど「nosign」を知っているかもしれないし、昔からそういうものなんじゃないかと思っています。
−−奇をてらった方法論ではなく、ある意味オーソドックスなスタンスをとられているのですね。
すごくオーソドックス、普通です。
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