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●はじめに 建築やプロダクト、アートなどの作品は一義的に作られておらず、過去の出来事や経験、周囲の環境などの作用から生まれるものなので説明することはとても難しい。モノが創られるまでには何かしらの影響がいくつも絡み合って、全体が動きながら生まれていく。そしてまた別の何かが動き出す。つまるところ、どんなものでもまずはただ感じて噛み砕いて、自分の経験などと絡めてまた別の何かを発見していくことこそに、自由や予感が広がっているのではないだろうかと考えている。 窓辺のカーテンを創作している中で定期的に「明障子(安土桃山時代以降の明障子)とカーテンの違いはなんだろうか」と考えてしまう。どちらも光を通し、視線を遮る道具でありながら空間美の一部でもある。 空間との関係性から見ると、障子は建築に組み込まれた”建具”であり、建築の一部として存在している。空間の構造そのもののような”膜”のような役割に近い。カーテンは取り付けや取り替えが自由な後付けの要素があり、”装飾”の役割が強い。障子は空間に合わせて使い、カーテンは空間を自分の意図で変えるためのものと言える。 光との関係性から見ると、明障子は和紙を通してぼんやりと柔らかく光を広げる。光を繊細に部屋の中へ映し出す。カーテンは光を遮るまたは操作することができる。遮光やレース、開閉方法により光の量をコントロールする。かつ、布の色や素材により光の色を変えることも可能だ。障子は光とともに生きる感覚であり、カーテンは光を選ぶ/操作する感覚である。 暮らし方から見ると、明障子には茶の湯文化による簡素さと自然と調和することや曖昧さを大切にするという日本の美意識が反映されている。視線(シルエット)や音も完全に遮断せず、気配というのを大切にしている。カーテンはプライバシーを守ること、空間をカスタマイズできるという西洋的な考えのもと、よりパーソナルで機能的なものである。 書き出して観察してみると感覚的に分かっていたような基本的な内容にも感じるが、それ以上の違いに気づいた時、外部から感じる光や風、音や視線への感じ方から始まり、窓や建築への感受性の違いがそれぞれ見えてくる。 ●空間を隔てること 5歳の頃に見た安倍晴明(野村萬斎氏主演)を主人公とした「陰陽師」がとても衝撃的だった。内容はまったく分かっていなかったが寝殿造の特徴である御簾や几帳、屏風、衝立のような調度によって空間を隔てることや、蝋燭や月明かり、風で部屋の奥行きが変わること、その間仕切りによって丁寧に人が動くこと、理性がなくなると女性でも衝立などを吹っ飛ばすこと、服の裾を仕切りにして顔を隠すなどの空間を隔てる種類により、人の行動がこんなにも変わるのかと小さいながらに驚いたことを覚えている。 戦後に登場した公営住宅の標準プランである51C型や、高度経済成長とともに急増した住宅メーカーによって規格化された戸建住宅が登場した後、現在ではその形式が少し変わり、シームレスな空間へと改修/新築されている。建築の用途を問わず壁が減り個室の在り方が寝殿造へと原点回帰しているかのようである。 開放的でありながら目的に合わせて仕切る、御簾や几帳、屏風、衝立の代わりにカーテンを使用している感覚だ。しかし、この間仕切りカーテンというのは窓辺のカーテンとは違い、建築に組み込まれた建具に近い存在として理解している。と言うのも、レールに縛られているからである。カーテンである以上レールという機構からは離れることができない。最近では鴨居や敷居のように最初からレールを掘り込むこともある。そして同じ場所で佇むことも姿を消すことも可能なのはやはり襖や障子と似ている。 日本建築は少しずつ形を変えながらも、今も昔も緩やかに空間を隔てる行為は変わらず求められている。そう考えると日本建築は、隔てる場所や仕方を変えながら緩やかさ、のびやかさというものをまた新たに発見していくのだろうという予感がする。そして自分もその一人でありたい。
●さいごに このような機会をいただき、やはり建築とファブリックについてもっと深く理解したいなという思いが募りました。そして建築におけるファブリック(カーテン)を考えて議論し合える方が1人でも増えたら嬉しいです。改めて、このような機会をいただけたこと、ここまで読んでくださった方々に感謝申し上げます。
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