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コラム

神が潜むデザイン

第70回:なぜ細部に神を宿らせる必要があるのだろうか/羽鳥達也

「神は細部に宿る」と言うが、本コラムでは、デザイナーがこれまでに「神」を感じた製品、作品、建築などを紹介していただくとともに、デザイナー自身のこだわりを語っていただきます。

イラスト[プロフィール]
羽鳥達也(はとりたつや):株式会社日建設計 執行役員 設計グループ代表。東京都市大学客員教授。JIA新人賞を受賞した神保町シアタービルや、日本建築学会賞を受賞したソニーシティ大崎、桐朋学園音楽学部調布キャンパス1号館。JIA環境建築賞最優秀賞を受賞したコープ共済プラザなどを手がける。津波避難のために建築の避難計画手法を応用し開発した「逃げ地図」は、全国に広まっている。



これまでに「神」を感じた製品、作品、建築などの紹介とデザイナー自身のこだわりについてのコラムの依頼ということで、改めてこの「神」とは何かについて考えてみたい。私は研究者でもないので、どうか気楽にお読みいただきたい。

●必要な神とは

改めて書くまでもないのだが「神は細部に宿る(Der liebe Gott steckt im Detail)」という言葉は、諸説あるようだが19世紀のドイツの美術史家アビ・モーリッツ・ヴァールブルク、あるいは20世紀初頭の建築家ミース・ファン・デル・ローエが言ったとされる。

ここで言われている神とはどういうことだろうか。西欧で言われた言葉であるのに、このさまざまな逸品の細部に神が宿っていると捉える態度には、東洋的な感覚を覚える。神の定義について考えていると文字数がかかりすぎるので、「人知を越えてすぐれた、尊い存在。」(Oxford Languages)という程度にとどめておく。したがって「人の手によるものを超えていると思わせる尊さを獲得するには細部にこだわる必要がある」という提言だとまずは置いてみる。平均的な人の技を超えて驚きや畏怖を感じさせるには、どうやって作ったのかと思わせる、全体から細部に至るまでの工夫や技術が必要であることは当然のことだろう。

一方、ミースと同時代の建築家ル・コルビュジエは「建築は人を感動させるための機械」であると記した。これは人々の競争によりやがて「完全美」が生み出されると考えていたからだが、ただ改めて考えてみたいのはなぜ我々はこの感動や畏怖が必要だと思っているのか。感動や感嘆は忘却や錯覚を生み、一瞬現実を忘れさせるが、他人より秀でていると思わせたいというような矮小な欲求を超える必要性がある気がする。

人のサイズを超える建築に、そして現代に必要な、または宿らせるべき「神」つまり「人を超える」所作とはどんなものか、なぜそれが必要なのか。というところがこの原稿の依頼もあって改めて気になってしまった。

●風景という虚構

人類の創作物の中で、大きく動かない建物がもつ特徴は、風景や景観といったものをつくってしまうことだと思う。ではそもそも風景とは何だろう。

「風景」という言葉は16世紀末にオランダで生まれたと言われている。カンポレージの「風景の誕生」によれば、もともとは平凡な場所を指していたようだが、風景画の発展とともに審美眼が育まれ、まずは田園風景が美しい風景として称揚されるようになった。17世紀半ばごろになって風景画に町や建築が描かれるようなったことはケネスクラークの「風景画論」にも記されている。

つまり風景とは人の教養、解釈とともに生まれ変化してきた概念で、いまも変化し続けているといえるだろう。そして、その土地の人、文化によって生まれ、人の営みによって維持、改変されてきた地形や植生、建物、土木などの人工物を含めた民族が生む光景は、説得力のある偽りのない価値ある風景であると多くの建築関係者は思っている。私もそうだ。ただもうすでにその土地の人、モノ、技術だけで建築を成立させることが困難な時代でもある。そうした状況の中で、これから建築がその場所の風景をつくってしまう中で、それがそこにあったほうが良いと思わせる説得力のある価値ある風景(になっていくだろう)と感じさせる所作を与えること、その追及が建築に必要な細部の「神」を考える根本にあるべきではないか。

一方で、その風景の下地となる民族や文化というものが、不確実な人々の記憶という失念や意図的な忘却など幾重にも折り重なった人工物であり、虚構そのものなのだが、だからこそその「虚構」のおかげで共同体の秩序や一体感が保たれるのであり、人間は「虚構」なしに生きられない生物である。と、小坂井敏晶の「民族という虚構」などでも指摘、看破されているのだが、その虚構=文化の活性化と維持のために必要なのが「神」なのではないか。つまり、ディテールの追求は、文化を活性化させ続け、虚構を再生産し続ける原動力の1つなのではないか。神は宿らせ続けないと文化は存続できない。しらけたら終わりなのだ。

では科学的な認知も進んだ、容易に人を納得させられない現代。そこに説得性のある神とはなんだろう。文化の活性化と書いたが、その存続のためには社会の経験や、科学的発見などにより変化する認識、価値観を取り入れ、神をアップデートする、その行く先を示す仮説が常に必要ではなかろうか。より必然性を感じられる「神」が必要なのだ。

●現実を感じさせる虚構

我々が教育によって本物と教えられてきた歴史的な風景すら、虚構をもとに形作られたものだとすると、本来虚構である神話や物語はどう捉えたら良いのか。

ここまで書き連ねてきたことを踏まえ、紹介する作品として何が的確なのだろうと考えながら年末年始を過ごしていたのだが、クリストファー・ノーラン監督の映画「インターステラー」には現代ならではの「神」をよく表していると感じた。スーパーコンピュータを用いて「ガルガンチュア」というブラックホールの姿を導出し高解像度に描いたのだが、そののちに実際に世界中の電波望遠鏡を連携させて世界で初めて観測に成功したブラックホールと、その情報をもとにシミュレートしたブラックホールの姿に酷似していたことで話題にもなった映画である

この物語でもっとも重要なのが「愛は観測可能な力であり、重力のように時空を超えて伝わる未知の力である」という仮説である。物語はその仮説を屋台骨として構築されている。その舞台は、パンスペルミア仮説などを踏まえた惑星環境の推測、量子論を踏まえた情報転送の限界、相対性理論を踏まえた重力による時間遅延などを正確に描くことで、物語に現代物理学との整合性と切迫感が生まれ、科学的に認知が深まった現代にそれを知る人が見ても興が削がれない、ファンタジーに陥る要素が注意深く排除されたリアリティのある舞台が設計されている。そして先述したブラックホールやそれぞれの惑星や宇宙船がまるで実際に見てきたのかと錯覚するようなディテールで描かれている。

このディテールたちは、コアとなる感動的な仮説があって初めて血が通い意味を持つのであり、ディテールたちはその仮説に説得力を持たせ、物語という虚構を真実に近づけている。これによって多くの人々(科学的現実性にうるさい人でも)が、しらけずに感動に至り、愛の新しい仮説が広く、かつ肯定的に認知されるようになっている。神の力であった愛は科学的分析が進み、愛は錯覚であるともみなされてきた現代に、再び愛を考え信じさせる1つの物語の在り方として、説得力と必要性を持つものになっている。ディテールへの拘りはこの虚構を真実と錯覚させる力を生むが、行き過ぎればスペクタクルとなってしまうか、ただの手遊び、自己満足に陥りかねない。意義を感じる感動が神=文化の根本を更新するとすれば、その根幹にはその追及に意義を与える幸せな仮説、問いかけが必要ではないか。

●神は虚構と現実の狭間に

映画も現代の建築も原型的な風景と比べれば、さらに虚構性の高い偽りであるが、それによる経験は何ら変わりない。重要なのはどういう行動、習慣を生じさせるものかではないか。

ドゥルーズも「経験論と主体性-ヒュームにおける人間的自然についての試論」で「空想の錯覚は、文化の現実」であり「文化は、偽りの経験ではあるが、真の経験でもある」と述べているように、錯覚も現実も、偽も信も重ね合いもつれ合っている。いずれにせよ、経験が人間が印象(感覚)の需要を積み重ね、それらのネットワークを作り上げていくことで主体のシステム、ここでいえば文化という幻想を作り上げていると述べている。そう私は解釈しているが、その文化の関係性において必然と見なしているもの(因果律)は主観的な信念でありそれは習慣によって生まれるというヒュームの主張にもあるように、文化において必然(と感じる錯覚)は習慣という行動の積み重ねが生むとすれば、経験の土台でありその制約にもなる建築はその習慣のために考えられなければならないだろう。建築はそうした人々の習慣にも強い関係を持っていると思うからだ。

ここまでの考察をもとに、自分の経験したコープ共済プラザについて振り返ってみたい。z
このビルが面する明治通りは、渋滞緩和のため拡幅工事が継続され、以前あった豊かな街路樹はほぼすべて伐採されてしまった。建築物の緑化は義務化されているものの、屋上緑化を選択することが多く、人の目に触れる壁面緑化などの事例は枯れるリスクも高く、当時は少なかった。

そこでコープでは日々通りを行きかう人々にとって建物が毎日見かける素敵な街路樹になるように、バルコニー緑化を選択し、それが瑞々しく茂るよう実験を積み重ね、その背景となる建築のディテールは植物たちを引き立てるよう突き詰めた。

緑をより自然に見せるために、硬質で青味がかった緊張感のあるコンクリートではなく、本来の少し黄色が入ったコンクリートの色を隠さずラフなままにし、土や石の質感に近づけた。コンクリートの記号でもあるセパ穴も小さいものを採用している。このコンクリートと接する押出成形セメント板も同様の色に近づけ、かつ表面処理をすると緑のランダムさと馴染まないため、押出の痕跡を消さずに残している。ツタが絡む鎖樋も植物の葉と協調してきらめくようステンレスのパイプがランダムに浮遊するものを選んでいるが、ステンレス表面のヘアラインを水平方向にすることでその輝きを実現している。

建築物が街路樹のようになるという仮説と、それがそうあり続けるために、緑化と馴染む背景としての建物、それが続くことにリアリティを与える数々の実験とそこからの発見によるさまざまな工夫とそれを実現するディテールたちは、ここでの虚構を真実に近づけただろうか。

このビルの実現は当時少々話題になり、TV番組でも取り上げられ、この近くに住む小学生がこの緑化の自由研究に取り組み、大きな賞を受賞したこともあった。そして、しばらくして、近隣にこのコープ共済プラザのような緑化をした建物ができた。これが新しい習慣というか継続を生んだ、1つの証拠だと思いたい。

感嘆から、認知、知覚が生じ、衝動が生まれ、思考し行動が生まれる。認知や知覚が発生しなれば新しい行動は生まれない。感動や感嘆はそのために必要なのだろう。

文化はその時点では経験しがたい経験、日常とは異なる経験から生まれる思考が未来を変えていくきっかけをつくることに本質的な意味があるとわたしは思う。そこで必要な拘りや細部はなにか、それと相補関係として足りうる仮説はどんなものか。それは今後も考えていきたい。



(2025年1月28日更新)


▲2014年に公開された映画インターステラーのブラックホール「ガルガンチュア」。 (クリックで拡大)


▲image credit:EHT Collaboration
2019年に世界で初めて撮影されたブラックホール。8つの電波望遠鏡を連携させた「イベント・ホライズン・テレスコープ(EHT/Event Horizon Telescope)」のグローバルネットワークがとらえた、おとめ座銀河団の楕円銀河「M87」の中心に位置する巨大ブラックホール。(クリックで拡大)


▲Photo credits:NASA’s Goddard Space Flight
2019年にNASAゴダード宇宙飛行センターの研究チームがシミュレーションによって可視化したブラックホール。(クリックで拡大)


▲コープ共済プラザ。(クリックで拡大)

▲街路樹となる緑化ファサード。(クリックで拡大)


▲緑と引き立てる鎖樋やラフなコンクリート。(クリックで拡大)


▲土を固めたようなコンクリートの表情。(クリックで拡大)





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