●出隅のありよう
パートナーの小林佐絵子とともに、「アトリエコ」というちいさな建築設計事務所を主宰しています。これまで少ない数ですが住宅や家具、商業施設などを設計してきました。
細部に神が宿る、というのはおもしろい言い方で、日本ではずっと山とか岩とか出っ張ったところに神さまは降りてこられることになっていましたから、建築でも出隅のありようにわたしたちは、注意深く意識をしないといけないのかもしれません。
わたしたちは隅が出てくると、ときおりアール形状に丸めてきました。隅の角が嫌いなわけではなくて、どちらかといえば出隅に囲まれることの開放感が好きなのでよく登場させるのですが、その、登場した出隅や入隅の角は得てして工事のさなかに丸められてきました。
ところで通常は、建築の内部空間は入隅に囲われます。直方体の部屋は12の入隅に囲われます。たとえばそこに出隅が登場して、その角を舐めるような空間の動きがあらわれると、途端に屋外の都市の曲がり角をさまようときのような外部感・開放感を得ることができます。
●「いつかのだれか」のかたち
話は次のステップに入りますが、よく、建築の友人たちから、2人で設計をしてどうやってかたちを決めるのか不思議がられます。その質問の意図は重々理解するのですが、わたしたちはかたちを決めるときにあまり衝突はしていません。同じ事務所をするからにはそれなりに趣味趣向が近いということはもちろんあるのですが、それ以上に、わたしたちはかたちに執着していないのかもしれません。
相手がこだわっていそうなかたちについてはすんなりともう一方が受け入れる。というよりそもそもかたちにこだわるという言い方がすこし違うように思います。最近は、「いつかのだれか」のかたち、という言い方をします。自分たちのかたちというよりは自分たちでない誰かが決めたようなかたち。そしてそのかたちを渡す相手も、クライアントのためだけでなくて、やはり、「いつかのだれか」が堪能していそうなかたちを探します。
「いつかのだれか」は人とは限らなくて、植物だったり、空気や雨だったり、過去の歴史上の何かだったり、未来の空想上の何かだったり、そして、未だ見ぬ建築だったりします。建築に渡す、あるいは、建築自身が決めるようなかたちともいえるかもしれません。よく小説家や漫画家が、登場人物が勝手に動き喋り出す、と言いますが、その感じが近いかもしれません。建築家が主体で建築が客体ではなく、建築自身が主体となる瞬間を探しています。隅のディテールもそうしたときあらわれます(写真1)。
と、こんな書き方をしていると、大学教員にあるまじき非論理的な感覚で決めているように聞こえかねませんが、わたしたちなりにかたちを決めるときの順序とバランスはあって、文章を書くたびに少しずつそれを、定式化していこうと試みています。
●かたちの出自の不思議
とはいえ、かたちの出自がどこかにあるのかもしれないと、この文章を書く上で思い返してみると、自邸(写真2)を設計したころに、2人ともたまたま参照したアールの空間がありました。「フォントネー修道院」という12世紀フランスのシトー派最古の修道院です(写真3)。パートナーの小林は訪れています。うらやましい。わたしは残念ながら行ったことはありません。なので記憶の中のかたちではありません。見てもいないし記憶にもないかたちが、別のかたちとつながるとは不思議です。ここでつながっているのは、はたして本当に視覚的な事柄なのか。
もうひとつ、だんだんとスピリチュアルになるのが気がかりですが、わたしの祖父がかつて使っていた木製の雲型定規(写真4)のアールは、自宅の生活空間に飾られています。家具大工だった祖父はわたしが生まれてまもなく亡くなったので、その手ほどきを受け継げてはいないのですが、道具というのは不思議なもので、やはり何かが宿っているような気がして元気をもらっています。とはいえ、多すぎるアールの種類は到底つかいこなせません。
そういうわけで、わたしたちがたまに不可思議なかたちを細部につかうのは、自分たちのかたちというつもりでもなく、特別な出自があるというわけでもなく、それならばいっそのこと祖父や神さまが宿ってくれていればいいのですが、そんなめっそうなことは言えないので、おとぎ話に登場する小人のような「いつかのだれか」が決めているのだとしています。
(2022年8月8日更新)
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▲写真1:「gohira house」。設計:atelierco、写真:jumpei suzuki。(クリックで拡大)
▲写真2:「pithouse in kikuna」。設計:atelierco、写真:chika kato。(クリックで拡大)
▲写真3:「フォントネー修道院」。写真:saeco kobayashi。(クリックで拡大)
▲写真4:家具職人の祖父の木製雲型定規。(クリックで拡大)
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