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コラム

澄川伸一の「デザイン道場」

その32:モロッコ迷宮:入国と洗礼編

澄川伸一さんの連載コラム「デザイン道場」では、
プロダクトデザイナー澄川さんが日々思うこと、感じたこと、見たことを語っていただきます。

イラスト
[プロフィール]
澄川伸一(SHINICHI SUMIKAWA):プロダクトデザイナー。大阪芸術大学教授。ソニーデザインセンター、ソニーアメリカデザインセンター勤務後に独立。1992年より澄川伸一デザイン事務所代表、現在に至る。3D CADと3Dプリンタをフル活用した有機的機能的曲面設計を得意とする。2016年はリオオリンピック公式卓球台をデザインし、世界中で話題となる。医療機器から子供の遊具、伝統工芸品まで幅広い経験値がある。グッドデザイン賞審査員を13年間歴任。2018年ドイツIF賞など受賞歴多数。現在のメインの趣味は長距離走(フルマラソン3時間21分、富士登山競争4時間27分)。



おそらく、今までの累積滞在日数と訪れた回数が一番多かった国はモロッコだと思う。

それだけ、自分にとっては惹かれる何かがこの国にあることは確かなのだ。独特な人柄、精緻な技術で構成された建築物、「カリガリ博士」に登場するような迷路状の旧市街のメディナなど興味深いものだらけである。ただ、1つ言えることは、自分はモロッコに滞在する度に、数キロ痩せて帰国してくる。モロッコ式ダイエットとでもいうのだろうか(笑)。

これは正直な話、自分にとっては、モロッコ料理が苦手ということなのである。特にクスクスはだめだ。日本で高いクスクスとか豆料理を食べたいとは夢にも思わないのだが、好きな人も多いのもまた事実だ。イスラム圏ではアルコールが基本禁止されている。揚げ物とビールの交互火消し作用とか、赤ワインと肉料理のペアリングとかという楽しみはここにはない。北陸ではカニ、山口ではフグ、佐賀では佐賀牛食べるぞ! というような食目的の旅のモチベーションはここにはまったくない。

そもそも、料理とお酒を合わせるという概念がない。にもかかわらず、この場所に強烈に惹かれるのは、食文化以外の文化的刺激がそれ以上に満喫できる場所だからなのかもしれない。食べることを忘れて模型作りに没頭するような感覚というか。そのあたりも自分の記憶の引き出しから掘り下げて考えてみたい。

そもそも現時点では、今までのように自由に海外旅行にも行けない状況ではあるが、旅の1日は日常の1日とはまったく異なる時間軸だ。日常とは遭遇する刺激の量も質も異なる。だから、旅行中の体験はその後も自分の記憶の中に生々しくありつづけ、何度も反芻できるものでもある。これが自分のデザインの引き出しになっているのは間違いない。よく、自分のデザインのテリトリーが異常なまでに広いと驚かれるのだが、そのルーツは、20代の頃の世界放浪の経験値によるものだと思えるのである。

旅先での時間密度が濃厚なので、往復の飛行機の移動時間を差し引いても、十分におつりがくると思う。旅先での不可解だった出来事が数年後にその意味が突然分かったりするのもまた楽しい。一度手に入れてしまえば永久的に出汁が出る昆布みたいなものだ。今回はその大好きなモロッコ旅行の一部を書き留めておこうと思う。少しでも旅行気分を味わってもらえれば嬉しい。

●古びたフェリーでアフリカ大陸へ

前回のコラムでも触れたのだが、最初にスペインに入った時に、バルセロナで得た情報を頼りにジブラルダル海峡を古びたフェリーでアフリカ大陸に渡ったのがそもそものモロッコに取り付かれる始まりだった。

スペイン側の南端のアルへシラスからフェリーに乗船すると、ブッチャーのような黒く丸い大男が、ポリバケツを片手にパスポートを集めに船内を回ってくる。特に制服とかを着ているわけでもなく、「ジェラバ」と呼ばれる頭の尖ったマントのような民族衣装を着ている。船内の乗客のほとんどが、このジェラバを着ていた。もちろんブッチャーは偽物の可能性だってある。現金の次に大事なパスポートなので、それをブッチャーに渡すのはかなりためらったものの、自分もとりあえずブッチャーにパスポートを渡す。パスポートは大きく黒い手でポリバケツに無造作に放り込まれた。これも理由が不明だが赤色のパスポートは世界中でも日本くらいなので、ポリバケツの中でもやたらと存在感がある。世界的にほとんどの国のパスポートは何故か濃い緑色か紺色なので、反対色相の赤はとにかく目立つのである。不安もあり、しばしポリバケツの中の赤色を目で追っていたのだが、何となく意味がない行為だなとあきらめることにした。

地中海の生ぬるい風をデッキで浴びながら、赤くて大きなバックパックを枕に寝転ぶ。そのままスペインで買った癖の強い煙草をふかしていると、それはそれで旅情があって心地よいひと時であった。振り返るとヨーロッパ大陸はもう霞んで何も見えない。クールグレイの6番のような鈍い景色とエンジン音の振動が延々と続く。

そうこうしているうちに気が付けばだんだんと人がデッキに集まってきてにぎやかになってきた。何かと思って視線の先を見ると、平べったくて黒いアフリカ大陸が霞みの向こうに見えてきたのである。皆、久しぶりに会える家族や仲間のことを想っているのだろう。あまり、心の準備も事前情報もないままに勢いだけで出発してしまったので「アフリカ大陸」という未知の世界に心も高ぶってくる。その未踏の大陸の一筋がだんだんと横に伸びて太くなっていくのをじっと見つめていた。

フェリーの船内は、ジェラバを着たモロッコ人ばかりで、服装的にも自分が完全に浮いた存在になっている。街中のサンタクロースはその色もあって非常に目立つがそんなの存在だったのだろう。船の中は、仕事で移動する人がほとんどで、悪そうな奴は1人もいない雰囲気だった。船の中で旅行者はどうやら自分だけのようだ。みんな出稼ぎ帰りで自国に帰れるのが嬉しいようで、自分のことを放置してくれるの逆に嬉しかった。

なまりのあるフランス語の会話が行き交うが、そんなにうるさくはない。フランス語というのはそういう言語なのである。早口ニューヨーカーのテレビニュースみたいな会話は慌ただしくて閉口するのだが。言葉っていうものは、情報量が多すぎると、肝心のポイントが不明確になってくるものだ。会話のポイントを探るのに疲弊してしまう。国や地域によって、言葉はまるで違う音楽のようにリズムもアクセントも独特なものになるから不思議だ。かつて恐山の秘湯に行ったとき現地のおじいさんとの会話は、世界中のどんな場所に比べても難解だった記憶がある。聞き取れたのは徳川家康という単語だけだった。言語に関してもいろいろ書きたいが、長くなるのでまたの機会にしようと思う。

モロッコ人の人物観察をしていると、あっという間に船のエンジン音が変わり、皆自分の荷物をまとめ始める。そろそろ下船の時間になったようである。見よう見まねで、自分も下船の長い列に並ぶ。ここでパスポートチェックのイミグレが船内のねっとりとした油臭い下船ドアの直前で行われることになる。20分くらい待たされて自分の番になる。なぜか自分のパスポートがすでに折り畳みの机の上に置かれている。

こういう手際のよさは本当に不思議だ。以前、セネガルの露店でビーサンを買ったことがあるのだが、高さ2mほどのゴミの山のようなサンダル山の中から自分が気に入った片方を見つけると、何処からともなく数人が現れてすごい勢いでそのサンダルの山から残されたもう1つを1分くらいで探し出すのである。これにも驚かされた。非効率とも思える手法の中に、何か人間の可能性を感じさせることがよくある。こうなると、何が正しいのか混乱してくる。

さて、脱線してしまったが、話は船内のイミグレに戻る。さっきのブッチャーではなく、今度は帽子をかぶった小さいおじさんが、演技のようなしかめ面でパラパラとページをめくって、「ガシャン!」と入国OKのスタンプをこちらの目を見ながら押す。このスタンプを押す音って、どんな旅行でもそれぞれ記憶に残る緊張感のある音だ。何か区切りを感じる音。ここからは「SI」ではなく「OUI」なのだ。言語の切り替えもここから。どんな文化圏なのだろうか? 「ついにアフリカ大陸だ!」

●絨毯屋での買い物バトル

タンジェの港町は決して安全とは言えない。バロウズの「NAKED LUNCH」の舞台にもなっている一癖ある港町。一般的に海外からの船が出入りする港町というのは、違法行為の巣窟でもあって妙に緊張するものだ。ソニー社員だった頃は、よく南米の港で巨大なコンテナ3個盗まれたという話を聞かされた。まるでイリュージョンマジックレベルだ。今回のアフリカ行きもまったくの予定外の行動だったので、自分はタンジェの地図もガイドブックもなにもない状況。そもそも、モロッコの情報すら、高校の授業内容どまりであって、首都はラバトで、イスラム圏で公用語はフランス語くらいしか予備知識としては持っていない。あとは、カルセール真紀さんで有名になった、性転換手術の技術が卓越した国ということくらいか。もっとも、それは自分にはどうでもよい情報でもある。

まあ、とりあえずは本日の宿を探すのが、今一番大事な自分のタスク。両替はそのホテルで聞くつもりだ。ただ、それ以前に、スペインで知り合ったモロッコ帰りの旅行者から得た情報では、旅行者はまず巧みに現地人に誘導されて絨毯屋に監禁される。そして高い絨毯を買うまでは一歩も外に出られなくなるという嫌な話だ。しかしながら、現実的にホテルを探すには誰かに聞かなければ無理な状況である。もちろん、日本語も英語も通じない。ここは、冷静に物事を進めないといけない局面である。こういう状況下って、実は内心ワクワクもしている。さて、ここからゲームスタートだ。

案の定、船を降りて20歩くらいで、やたら声をかけてくる。無視してもずっと後ろをついてくる。もう、登場人物全員が悪い奴に見えてくる。こういう状況では日本人にとっては一番苦手でもある「無視」をするというのが鉄則なのであるが。「無視」をしたらしたで、変に訛りのある基本英語で、グダグダと「なんてお前は冷たい奴なんだ」みたいにつぶやきながらずーっと後ろをついてくるから、とても困ったものである。まあ、これはモロッコに限った話ではない。インドのオールドデリーでは、ふと振り返れば、世界地図売るやつとか、耳かきするやつ、マッサージするやつ、木彫りの動物売るやつ、そしてただの物乞いとか自分の後ろに長い列がいつの間にかできていて、幼稚園の桃太郎の絵本の表紙みたいになっていたこともある。でもこれが普通なのである。

さて、客引きはかなり振り切ってきたつもりなのだが、情けないことに、ホテルに案内されるつもりが、やはり絨毯屋に到着する羽目になってしまった。これにはまいった。高そうな椅子に座らされて、真鍮の不思議なティーセットが運ばれてきてミントティーを飲むことになる。ただ、このミントティーがめちゃくちゃ美味しかった。長旅で疲れているせいもあって、砂糖多めで大量にグラスに押し込められた濃厚なミントの香も強烈に鼻腔を直撃し、だんだんと元気になってくる。元気にさえなればこっちのものでもある。絶対に絨毯は買わないと改めて自分に誓う。

次々と目の前に広げられる絨毯も、全部「自分の好みではない」と首を横に振り続けること30分。気が付けば、広げた絨毯の蓄積で、まるで相撲の土俵のような景色が目の前にある。とにかく自分は絨毯が嫌いだを延々と言い続けた。そして向こうも流石にあきらめた空気になったタイミングを見計らって絨毯部屋を後にした。結局はこの我慢比べで勝つことができた(笑)。通常は、この土俵に根負けして、中でも一番安そうな絨毯を購入するようだ。

モロッコからの帰国時に知り合った英国人夫婦からは、なんでタンジェで絨毯を買わないで済んだのだ? と根掘り葉掘り質問攻めにあったこともある。ただ、ミントティーのタダ飲みも悪い気がしたので、素敵な形のベルを300円くらいで購入した。とてもいい音がする。これは絨毯屋の入り口に置いてあって、かわいいなと気になっていたものの1つ。このベルは、今も大事に事務所の陳列棚に飾っている。

しかし、その後、まさか自分が絨毯のデザインをするとは夢にも思わなかった。この時の経験をもとにモロッコに敬意を表してアラベスク柄なのだ。高価なものにもかかわらず、お陰様でとてもよく売れている。自分が絨毯をデザインするたびに、このタンジェの絨毯屋の部屋がいつも頭の片隅にある。

●モロッコでは客から値段を提示する

将来モロッコに行く予定がある人に助言するとすれば、買い物は絶対に買いたいと思うもの以外は値段を聞かないほうがいい。まず、値札というものが存在しないし、そもそも定価という概念もないからである。値段は聞くものではなく、こちらから提示するものである。大体、こちらの希望購入価格を告げた瞬間に「地球の終わり」のような絶望的表情を見せて、両手を上に上げてオーバーアクションで悲しそうな表情をする。その演技力がまた物凄い。そして、そこからいかにこれを作るのが大変かを丁寧に語り始めるのである。これはこれで勉強になる。ああ、こういう工程でこれが作られたんだなあと。相手も必死でしゃべっているから。自分も旅の後半では、相手が値段を行ったときに絶望的な表情で「地球の終わり」の表情をするのが得意になっていた。これもこれで楽しいものだ。

モロッコでの買い物は、時間がある時でないとまず無理である。また、この機会を逃すとまず手に入らないと思っていい。空港で似たようなものを見ることもあるが、だいたい質も悪く値段も高いし、値下げ交渉はまず不可能。現地での買い物は、各自のフランス語での交渉能力次第なのでもあるが、最終的には自分の最初の言い値でゲットして最後は握手にて笑顔でバイバイとなるのであるのが一般的パターンである。「もういらないから」と、いったん移動するそぶりを見せるのも有効である。必ず、値下げするから待ってくれと追いかけてくるはずだ。これは楽しまなければ損でもある。

そして、大事なポイントは自分が最初に言った値段よりも安くすることはほぼ不可能に近いということである。買い物にもいろいろと仕組みとルールがある。これはこれで、駆け引きを楽しむのはお互い様というゲームと思えばいい。ネットでポチり、瞬時で完了してしまう現在の買い物とは違い、物を買うという行為自体がそれぞれの物語性と人間力を持ってくる。そして、交渉がまとまれば、お互いのマウンティングも終わり、ニュートラルな関係になる。自分の場合は、ありがたいことに絨毯屋でホテルへの道順も聞くことができた。

紹介されたホテルに着くと、二つ星にも関わらず、なんとも小奇麗で趣のあるイスラム建築ではないか。柱から壁面、天井から床までが、きれいなモザイクタイルで覆われている。上品な間接照明がそのモザイクを照らしている。ロビーから見えるパティオも外界の喧騒が嘘のように静かで落ち着いた空間で、小さな噴水すらある。長い時間をこの中庭でお茶をしながら過ごした。宿泊客も自分1人のようだ。今日は船を降りてから、延々とタイガージェットシンと格闘したようななんとも激しい1日だったので、この静寂な空間がとにかく避難所のように居心地が良かった。その日はもう、またあの喧騒の旧市街に繰り出す気力もなく、スペインで買った、ミネラルウォーターとチーズと生ハムとオレンジで済ますことにした。

明日はとにかくマラケシュまで行こうと思う。いったい何が待っているのだろう? モロッコに着いたら、タンジェは通過点としてやり過ごして、とにかくフェズかマラケシュへ向かったほうがいいと言われていたからだ。ホテルで聞いた情報ではマラケシュ行きの列車は明日の電車は朝の4時。目覚ましをセットしておくのを忘れないようにしないと。気が付けば、サラサラのシーツに入り込んだ瞬間に気を失ったように深い眠りについていた。


つづく。



2021年4月1日更新




▲モロッコの絨毯屋で購入した鈴。スカート部がベルになっている(クリックで拡大)





▲2020年にデザインした「鍋島緞通」(クリックで拡大)





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