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コラム

澄川伸一の「デザイン道場」

その26:「デザインを教える」後半/実践編

澄川伸一さんの連載コラム「デザイン道場」では、
プロダクトデザイナー澄川さんが日々思うこと、感じたこと、見たことを語っていただきます。

イラスト
[プロフィール]
澄川伸一(SHINICHI SUMIKAWA):プロダクトデザイナー。大阪芸術大学教授。ソニーデザインセンター、ソニーアメリカデザインセンター勤務後に独立。1992年より澄川伸一デザイン事務所代表、現在に至る。3D CADと3Dプリンタをフル活用した有機的機能的曲面設計を得意とする。2016年はリオオリンピック公式卓球台をデザインし、世界中で話題となる。医療機器から子供の遊具、伝統工芸品まで幅広い経験値がある。グッドデザイン賞審査員を13年間歴任。2018年ドイツIF賞など受賞歴多数。現在のメインの趣味は長距離走(フルマラソン3時間21分、富士登山競争4時間27分)。



●「得意」を見つけ出す

「デザイン」を教えるというのは、自分のコピーを量産することではない。そもそも、自分のコピーなど作れないし、作る意味もない。そうではなく、誰ものそれぞれの内部に隠されている未知の「表現」の可能性を引き出すこと。そのお手伝いをすることなのである。これは「教える」というよりは「地図を渡す」といった感覚のほうが近いかもしれない。

人それぞれ、自分自身の得意な領域を誰もが持っている。それはただ単に声が大きいとか、本をよく読むだとか、ものまねが上手だとか、どんなに些細なことでも十分だと思う。その些細なことの背後に、実は本人すら意識していない「未知の可能性」を秘めているからである。この些細なヒントを頼りに、第三者が未知なる可能性の部分を感じたのならば、これは本人に思い切って伝えてあげないと非常にもったいないことである。

もちろん、これは責任重大だし、慎重にならざるを得ないが、これが教える側の立場としては、一番大事なことではないだろうか。人の欠点しか指摘しない先生も多いが、それは誰にでもできることだ。それよりも大事なことが、この「隠れた可能性の指摘」だと思うのである。

例えば陸上競技で、中距離選手に長距離が向いていそうとコーチから転向を進められて良い結果を出す選手が多かったり、音楽でも、現在は管楽器だけども実は弦楽器が向いていたりとか、行き詰まっていた人が同じジャンルの中でも少し方向性を変えることでいきなり開花することが多い。これは指導者の能力次第でしかないが、このことが本人にとってより「活躍できる場所」に導くために、練習方法や環境を変えるという「地図を渡す」ということなのである。

向き不向きというのは100%存在する。それに気づくのはできるだけ20代くらいまでのほうがいいと思う。そして、ポイントはそれが見つけられるかどうか、見つけてもらえるかどうかだ。

自分の場合はとにかく暗記することが非常に苦手だった。歴史の年号とか漢字も苦手だった。メニューを覚えたり、レジ打ちのある喫茶店のバイトなどは絶対に無理だったと思う。結果的に、もし、暗記力が求められる職に就いていたならば、コンプレックスですぐに押しつぶされていただろう。今現在は、「プロダクトデザイナー」であるのだが、暗記力でマイナスだった分「想像力」がプラスになっていたからこそ、この仕事で食っていけているのだと感じる。むしろ、「暗記力」がマイナスなことに感謝なのかもしれない。

さらにデザインの中で細かく言えば、現在もグラフィックデザインは実は苦手分野なのである。たまにグラフィックの依頼も来るのであるが、基本的には信頼できるグラフィックデザイナーにお願いしたほうが、質も良いし時間も速いというのも嫌というほど経験済みである。その代わり、自分の場合は「立体物の作成」に関しては、趣味の延長線上のように楽しくスピーディーに作業がはかどる。それでよかったと痛感している。すべてを頑張らないほうがいいし、その必要性もない。人生にオール5は不要だと断言できる。

人間の能力には大きなマイナスの部分があれば、必ずその絶対量だけ大きなプラスになっている部分がある。そのプラスの部分だけにスポットライトを当てて人生を送ったほうが絶対にいい。そうして毎日を過ごしていれば、マイナスの部分などは、いつの間にか意識から消去されていることに気が付くはずだ。

また割と錯覚しがちな事実として、自分が好きなことと、自分が得意なこととは一致しないケースが多い。本人の頭の中では「混同」しているケースが多いのである。ただ、得意なことを生活のための仕事にしてあれば、結果的には人よりも稼げるようになるだろう。逆に、好きなことが、現実問題として仕事として稼げるとは限らないのである。本当に好きなことは、むしろ大切にして趣味の範囲にとどめておいたほうがいいのかもしれない。本当に仕事を楽しめるようになれば、それはもう趣味を超えた趣味になっていくものだし。

●デザインはポジティブに仕上げる仕事

ここで、本題の「デザインの見つけ方」について僕の通常の思考法を参考までに書いてみます。「デザイン」は美しくまとまっていることがまず、絶対条件。いくら機能的に優れていても、見るたびになにか不快な感覚を覚えるものというのは日常的に何らかのストレスになってくるもの。世界中の人々がどの時代でも美術館に足を運ぶのは何故か? それは美しいものを見たい、接したいという潜在的な欲求が存在しているからなのである。

何故、12000年前の縄文土器が現在まで大切に保存されているのか? それは、いつの時代でも、この形に何らかの「美しさ」を感じ取り、保存欲求というものが受け継がれているから。「美しさ」これは説明で理解するものではなく、全身で感じ取る行為でもある。

単純にアートというくくりでは、ポジティブなものも、ネガティブなものも同じ美術館の中にも存在する。人の内面的な感情に訴えてくる作品は、作品が発する波長のようなものが、その人の精神的なものに同調して共振して心地よいと感じるから、「アート」としては、仮にネガティブな表現であっても心地よいのである。

僕自身、ベーコンとかダリとかバスキアとかの絵画は大好きだし、デビッド・リンチやホロドフスキー、クローネンバーグとかの映画などのネガティブ系もよく観る。しかしながら、デザインの場合は、常にポジティブ側の表現でなければならないと個人的に感じている。

だからこそ、使う人、見る人すべてが、不快に思わないようにその佇まいをコントロールする必要があり、それができるのがデザイナーの職能なのだと思う。このあたりの話は奥が非常に深く、とても複雑なのであるが、実はネガティブなアートの中には強烈な美しさが内在しているのである。例えば、有名な香水でも、その中にほんのわずかの悪臭と言われている成分が加えられることで非常に官能的な香りに変貌するのにそれは似ている。それを気が付かないようにどう入れ込んでいくかなのである。

オール3のデザインにはやはり何か魅力に欠けるものがあるのもこういった原材料が影響している。料理と同じで、そのあたりの匙加減が極めて重要なのである。こればかりは、それぞれが生きてきた人生経験のエッセンスであり、今まで読んだもの、観てきたものの引き出しから何となく漂ってくるものでしかないのである。だから人それぞれのデザインテイストが異なって楽しいのである。読書としては、例えば谷崎潤一郎や三島由紀夫とかを読むと、そのあたりの美学も何となく感じることができると思う。

デザイナーを目指すのであれば、日常的に視界に入るものすべてのシルエット、面構成、色、素材などを注意深く観察して、自分なりに分析する癖をつけることがまず大事だろう。旅に出て、今までとは異なる景色を体感することも大事だ。飲み会で他人の噂話に参加しているような時間などないはず(笑)。

視界にあるものを瞬時に採点していくみたいな訓練もおすすめだ。個人的には、日本の「電柱」と「電線」は一番抹消したいもののTOPなのであるが(笑)、ここには、九龍城のようなカオスの美学は感じられない。綺麗な住宅街でも、電柱と電線が景観をダメにしている。雑貨屋さんとかに行って、陳列されているマグカップとかを片っ端から採点していくのも、いい訓練になる。ただし、変な人と思われないように心の中だけにしておくこと(笑)。

●自分自身を2人に分割する

デザイナーは、その作業の工程において2人の異なる自分を作る必要があると思う。1人目は前述の「美しさ」を追求する感性本位の自分。2人目は機能的で、製造可能なように設計する「工学的な人」になること。実際に商品を売っていく場合のコスト試算なども大まかに把握している必要もある。自分は工学部出身でもあったので、2人目の自分も比較的作りやすかった。ただ問題は、この2人がまったく仲が悪いということ。思考における共通項がほとんどないので脳内でもまったく話がかみ合わないのである(笑)。

ここで図1を見てほしい。まったく、人格も違えば、使用する脳領域の異なる2人がそれぞれ締め切り時間に向かって作業のアプローチを開始する。初期にはこの2つのベクトルはバラバラで一致することもないのだが、作業を深めていく段階で、突然に両者が交わる交点が見つかる。その瞬間が「デザインができた!」というタイミングなのである。

交点を見つけるまでのスピードは経験値やアイテムの難易度によって異なるものだが、この交点を見過ごして、同じ思考を行ったり来たりするのもまだ経験値が少ない学生や入社間もないデザイナーに多く見受けられる。いわゆる「思考の泥沼状態」というやつだ。もがけばもがくほど底に沈んでいってしまう。そんな時は、一度デザインから離れてみたほうがいい。どうせ、同じスケッチや同じ思考でぐるぐる回って消耗していくだけなのだから。

いずれにせよ、この交点が上手く見つけられれば、あとはこれを丁寧に仕上げていけばよい。「美学」と「工学」が一致していれば、設計的にも無理なく製品化に向けて着実と無理なく進行していくものなのである。

自分自身を2人の人格に分割して、2軸で作業を進めていくと、独りよがりにならずに思考を客観視でき、冷静に仕事もはかどるものである。これはデザインに限ったことではないだろう。

●「解」から別の「解」が産まれる

そして、さらに話を進めれば、デザインの「解」は1つではない。例えば、同じデザイナーであっても、その取り掛かる時期によって別な「解」が出てくる。3年前の依頼を今デザインしたら、おそらくまったく別なものを仕上げているはずだ。デザインは生ものであって、いつどんな「解」が出てくるかは予想のつかないものである。クライアントがデザイナーを選ぶときは、その過去の一連の実績から未知なものを予測するという一種の「賭け」でしかない。

そして、一度完成した「解」からもっといい別の「解」が突如現れるということも珍しくない。プレゼンの前日に突然にひらめいたアイデアの方がはるかに良く、徹夜でぎりぎりで仕上げた結果、全員一致で、その案に決まったということも日常的だ。ただその場合は、前段階のデザインの「解」があった上で別案が産まれたというステップがある。

一番よくないのは、締切寸前まで悩んで、作品を仕上げることがギリギリになって、別案をひらめく時間さえなくなってしまうというケースだ。学生の場合はほとんどがこのケースであろう。

自分自身の締切というものを最低2日前くらいに設定して、本当にこれがベストの解なのかどうかを自問自答する期間をプレゼンの前に設けるべきである。自分自身を追い込んで時間をワープさせるのだ。

また、それには自分自身を否定することも大事である。初期に浮かんだ自分のデザインに固執しすぎると、せっかく後に閃くであろう、さらに良い別案を見逃す危険がある。そのあたりは大らかに気持ちを持つことが大事である。自己否定の勇気を持つことも大事。

自己分割の2人の自分で並行に作業をしていく重要性と同時に、いかに自分が作ったものを客観視できるかということがとにかく大事なのである。課題が出た瞬間から、ともかく作業を開始するべきである。考えている時間があったら、手を動かすこと。手を動かしながら考えられるではないか。いったん、手を動かし始めれば、それは電車の中や寝ている間でも、脳は自分の意志とは別に、裏側で思考を持続して進んでいってくれるものなのである。時間配分はどんな仕事にとっても大事なことだと思うが、とにかく早めに手を動かし始めるというのがポイント。

最後になるが、学生の特権は「失敗して結構」ということだ。失敗して落ち込めば、その経験は必ず次の作品のエネルギーになっている。たくさんたくさん失敗した方が、そのあと必ず伸びる。逆に、プロのデザイナーになった瞬間から失敗は絶対に許されないものとなってくる。締切に間に合わないのはさらにまずい。特にフリーランスになった場合は、一度でも失敗したらおそらくそのクライアントからは二度と発注はないと思ったほうがいい。

厳しい世界なのである。今のうちにどんどん失敗しよう。そのうち失敗できなくなるんだから。


2020年10月1日更新




▲図1:2人のアプローチの交点が、デザインとなるタイミング。(クリックで拡大)





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