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コラム

秋田道夫のプロダクトデザイン温故知新 第6回

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人と資源の合衆国
アメリカデザイン(前編その2)


デザインの将来に向けて、過去から今に残っているものを探るのも悪くない。
このコラムではモノが大量生産されるようになった草創期から振り返り、
デザインとモノの変遷を捉え直していきたい。
過去には未来へ向けた種子がまだ隠されているかもしれない。


[
プロフィール]
秋田道夫:1953年大阪生まれ 1977年愛知県立芸術大学美術学部デザイン科卒業。
ケンウッド・ソニーを経て1988年に独立。フリーランスのプロダクトデザイナーとして現在に至る。
http://www.michioakita.jp/

※本コラムは雑誌「Product Design WORLD」(2005年ワークスコーポレーション刊)の連載から、
版元をはじめ関係各位の許諾を得て、pdweb用に再掲載しました。原則的に加筆・修正は行っていません。


●大リーグデザイナー養成ギブス

日本が戦後お手本にしたのはドイツでもイギリスでもイタリアでもなかった。

まさしくアメリカに他なりません。1956年通産省の招きでロサンゼルスにある「アートセンター」の校長や教授4人が来日し、セミナーを開催しています。また同年に日本から13人のデザイナーがアメリカに研修に出かけています。そしてデザイン留学制度がやはり1956年に発足し、2期生としてGKデザインを創設した栄久庵憲司さんや平野デザインの平野拓夫さんという戦後の成長期を支えた人たちが、アメリカへ、そしてアートセンターへ旅立ちました。

では日本人が憧れたアートセンターとはどんな学校だったのでしょう。

ロサンゼルス郊外にあるデザイン学校、アートセンター・カレッジ・オブ・デザインには広告、写真、プロダクトデザインのカテゴリーがありますが、とりわけ高く評価されたのはプロダクトデザインでのカーデザイナー養成システムでした。

当時導入されたハイライトレンダリング(黒い紙に白やシルバーの色鉛筆を用いてスケッチする方法で、白い紙に描くスケッチに比べて短い時間でそのものの雰囲気を表現できます)や、パステルレンダリング(パステルは乾燥しているので乾く時間を待たなくて済みます。また修正や色を乗せるなどが容易で紙の節約にも寄与します)、後には「スピードライマーカー」が発明され、いち早くアートセンターでそのスケッチテクニックが発達しました。「スピードライ」の字のごとく揮発性の溶液を使っているので、乾燥が速いわけです。

それ以外にも「スプレーのり」や「液体ゴム」などアメリカで発明されたデザイン道具は枚挙に暇がないのですが、すべてに共通するのが乾く時間や材料の倹約に結びついていて、デザイナーが素早く一晩で多くの絵を生み出すかの「スケッチ促進剤」だったわけです。現在では有機溶剤の健康への影響やフロンガス、パステル粉の問題など環境問題と結びつき、以前ほどこれらの道具が使われることはなくなりました。同時にパソコンの発達、低価格プリンタの進歩によりクリーンなデザイン作業に変わってきています。

アートセンターは有望な才能が集まっただけでなく、教育者に自動車産業の現場で働く現役デザイナーを迎えていたことも大きな特徴です。今であればそんなに驚くことではないのですが、当時としては画期的なことでした。

以前、バウハウスでの教育システムが、日本(いや世界)のデザイン教育の基本になっていると書きましたが、いざ「プロダクトを具体的に考える」段になって何を手本にしたかといえばアートセンターを中心とするアメリカの教育システムだと思います。バウハウスは戦前で、まだ「自動車」も「電気製品」もなかったわけですから。そして、戦後できたバウハウスの血を継ぐウルム造型大学ではなかったのですね。なにせバウハウスを教えていた中心者はこぞってアメリカに行ってしまっていたわけですから。

バウハウスの時代にすでに自動車や電気製品が登場していて、お手本がデザインされていたら、世界のデザインの歴史はきっと変わっていたでしょう。

   


●リ・デザインの甘い誘惑

わたしの手元に『工芸ニュース』という古い本があります。この中に1960年に産業工芸試験場で開催されたデザイン講習会の模様が収録されています。そこには「リ・デザイン」という言葉が頻繁に出てきます。ハーバードでグロピウスに習ったかもしれない教授がローウイと同じようにリ・デザインを口にするのは違和感を感じるのですが、そこで日本人のデザイナーが描いたスケッチは今ではとても陳腐なものです(教授はしきりとまとまっているとお世辞を書いていますが)。

しかしながら、その当時拙いスケッチを描いていた日本人デザイナーたちが、数年後には自分たちの生活や国の産業の根幹を脅かす存在になるとは夢にも思っていなかったでしょう。

ソニーがアメリカに進出したのはまさしく講習会と同じ1960年の2月。アメリカのデザイナーたちが既存の製造方法に則って「同じ中身の外観変更」のラジオやテレビのデザインに血道を上げていた時、日本はトランジスターという画期的な小型化の技術を携えてアメリカの地にその評価を問うたわけです。同じ機能をもっとも小さく、でも機能が同じであれば値段が安い。そういう製品がアメリカ人の心を捉えたことは不思議ではありません。

同様に自動車メーカーがアメリカで「DATSUN」「TOYOTA」「HONDA」と横文字で表記され、国産品とアメリカ人に間違われるまでに浸透していきます。石油の高騰が拍車をかけて、大型で燃費の悪い自動車から小型で丈夫な経済効率の高い日本車に乗り替えたのは「賢明な判断」です。それはカメラの分野でもそうだし、音響機器の分野も同様です。

一方アメリカで売られていた電化製品は、日本で受け入れられるにはあまりにも大きすぎました。つまり日本からのモノはアメリカには入っていくが、アメリカからはコカ・コーラやマクドナルドなどの食料品や映画や音楽という文化は入ってくるものの、肝心の工業製品が入ってこられないという貿易の不均衡が起きてしまった。それはアメリカが長年かけて作り出した「身から出たサビ」かもしれません。

「アメリカのプロダクトデザイン」について印象が薄いのはそういう理由だったのです。日頃アメリカ製品を見かけていなかったのです。1960年から1980年にかけてアメリカのプロダクトデザインの世界で活躍していたのは日本のプロダクトだったのです。戦後、敗戦から立ち直るためアメリカにしがみついていた日本が、いつの間にか親であるアメリカの身体を傾けることになったのはなんとも皮肉な話です。そこにあるのは、すべてを教えてくれた「おおらかな国」と「必死な国」との切ない物語でした。

1956年通産省による最初のアメリカ研修に柳宗理(やなぎむねみち、1915年~)さんも参加していました。柳さんは世界デザイン会議に出席し、そこで「アメリカのデザインはコマーシャリズムがいきすぎている。内容とデザインがかけ離れている」と発言されたそうです。わかっていたんだけれど、動き出した「大きな恐竜」アメリカは止まれなかったんですね。

次回は、1976年カルフォルニア郊外にある町のガレージから始まった「帝国の逆襲」の物語です。


 

 

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▲イラスト:HAL_(クリックで拡大)


 

 

 


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