●リ・デザインの甘い誘惑
わたしの手元に『工芸ニュース』という古い本があります。この中に1960年に産業工芸試験場で開催されたデザイン講習会の模様が収録されています。そこには「リ・デザイン」という言葉が頻繁に出てきます。ハーバードでグロピウスに習ったかもしれない教授がローウイと同じようにリ・デザインを口にするのは違和感を感じるのですが、そこで日本人のデザイナーが描いたスケッチは今ではとても陳腐なものです(教授はしきりとまとまっているとお世辞を書いていますが)。
しかしながら、その当時拙いスケッチを描いていた日本人デザイナーたちが、数年後には自分たちの生活や国の産業の根幹を脅かす存在になるとは夢にも思っていなかったでしょう。
ソニーがアメリカに進出したのはまさしく講習会と同じ1960年の2月。アメリカのデザイナーたちが既存の製造方法に則って「同じ中身の外観変更」のラジオやテレビのデザインに血道を上げていた時、日本はトランジスターという画期的な小型化の技術を携えてアメリカの地にその評価を問うたわけです。同じ機能をもっとも小さく、でも機能が同じであれば値段が安い。そういう製品がアメリカ人の心を捉えたことは不思議ではありません。
同様に自動車メーカーがアメリカで「DATSUN」「TOYOTA」「HONDA」と横文字で表記され、国産品とアメリカ人に間違われるまでに浸透していきます。石油の高騰が拍車をかけて、大型で燃費の悪い自動車から小型で丈夫な経済効率の高い日本車に乗り替えたのは「賢明な判断」です。それはカメラの分野でもそうだし、音響機器の分野も同様です。
一方アメリカで売られていた電化製品は、日本で受け入れられるにはあまりにも大きすぎました。つまり日本からのモノはアメリカには入っていくが、アメリカからはコカ・コーラやマクドナルドなどの食料品や映画や音楽という文化は入ってくるものの、肝心の工業製品が入ってこられないという貿易の不均衡が起きてしまった。それはアメリカが長年かけて作り出した「身から出たサビ」かもしれません。
「アメリカのプロダクトデザイン」について印象が薄いのはそういう理由だったのです。日頃アメリカ製品を見かけていなかったのです。1960年から1980年にかけてアメリカのプロダクトデザインの世界で活躍していたのは日本のプロダクトだったのです。戦後、敗戦から立ち直るためアメリカにしがみついていた日本が、いつの間にか親であるアメリカの身体を傾けることになったのはなんとも皮肉な話です。そこにあるのは、すべてを教えてくれた「おおらかな国」と「必死な国」との切ない物語でした。
1956年通産省による最初のアメリカ研修に柳宗理(やなぎむねみち、1915年~)さんも参加していました。柳さんは世界デザイン会議に出席し、そこで「アメリカのデザインはコマーシャリズムがいきすぎている。内容とデザインがかけ離れている」と発言されたそうです。わかっていたんだけれど、動き出した「大きな恐竜」アメリカは止まれなかったんですね。
次回は、1976年カルフォルニア郊外にある町のガレージから始まった「帝国の逆襲」の物語です。
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