●「マルコ・ザヌーソ」の存在
最後に紹介するデザイナーは、マルコ・ザヌーソです。日本での知名度はそう高くないように思うのですが、ベリーニでデザインを知り、エンゾ・マリでデザインの醍醐味を知って、ザヌーソに行き着いたというのがわたしの「イタリアンモダンデザイナー史」なのです。ミラノに生まれミラノ工科大学を出て建築設計をしながら、デザイン雑誌『カサベラ』の編集長も務めるなど経歴、教養、バランス感覚などすべて揃った人物といえるでしょう。写真でもよく笑っています。
バランスがとれているがゆえに、派手でもなく特徴的でもなく、エキセントリックでもなくなんとなく黒子的なのですが、前述のように「たどり着く先」たる人物です。ベリーニが『ドムス』誌の編集長になったのも、ザヌーソに対する憧れがそうしたものかと思えてきます。
彼の代表作の多くは、リチャード・サパーとの競作ということになっています。ゆえに、ザヌーソらしさとサパーのデザインした部分を「分別」する必要があります。ザヌーソと別れてからのサパーの作品はクールで線はどちらかといえば細いものが多いので、もう少し「ふくよかな」造型言語を持った人とザヌーソデザインを解釈しています。きっと彼はパートナーの良さを引き出すことに長けていたのでしょう。ブリオンベガの折り畳みのラジオ、黒い立方体のテレビ、赤い小型のテレビ、世界初のプラスティック成形の子供用のスタッキング(積み重ね)チェア。そして折り畳みの「グリッロ(こおろぎ)」と呼ばれる電話器など、黄金のコンパス賞を取った名作の数々には2人の名前が添えられています。
ちなみに、黄金のコンパス賞の設立にも貢献し、1回目から選定委員を務めています。いい意味で、多分に政治的な色合いの濃い人なのもしれません。
●デジタルの台頭、イタリアデザインの終焉
イタリアンモダンデザインが輝きを放っていたのは、1950年代から1970年代にかけてのことでした。わたしがデザインという世界を知ったのは、多分高校生の時見た大阪万博のイタリア館に飾られていた「スーパーカー」だったと思います。とにかく、自分の生活とは「まったく交わらない夢の世界」の物語でした。
1980年に最初にイタリア・ミラノに行った時、「デザインの王国」と信じていた私の目は、ミラノの街の生活の中に意外なほど「デザイン」がないことに驚きました。ドイツで頻繁に見られるベンチやゴミ箱や公衆電話などの「公共機器」の美しさもなく、フランスで見られる建物の圧倒的な整然さも感じられませんでした。リナシェンテ百貨店も印象になく、当時もてはやされていた「フィオルッチ」のショップには行ったけれど、知らぬ間にリナシェンテの前を素通りしていました。その時「スカラ座広場」に面したガレリアの電器店の店頭を晴れがましく飾っていたのはあのブリオンベガでなく、なぜかソニーのトリニトロンカラーテレビでした。
今回、イタリアのモダンデザインについて書いていて、もうそれこそ、次から次から溢れるようにすぐれた過去の製品が頭の中を駆け巡り、選ぶことに難渋しました。イタリアンデザインに対して日本人は憧れ、そして「抽象的な理想像」を描きすぎていたように思います。イタリアがちゃんとバウハウスの影響を受けたこと、フランスに対してかたくなに影響を拒んだことなどの複雑な感情を持っていることなど、知ろうとしてきませんでした。ただ、ベリーニの時に書いたようにパーソナルコンピュータがアメリカで生まれてから一度もその分野ですぐれた製品を見いだせないこと、デジタルカメラといった光学製品、ウォークマンのようなパーソナルオーディオを彼ら「イタリアモンダンデザイナー」たちが手掛けていたらどんな製品が生まれていたかを考えずにはいられないのです。
フランスにたたずみドイツで羽を休めイタリアで踊り明かした「デザインの神様」は、気紛れで飽きっぽく一所にとどまってはくれません。神様は次にアメリカでしばし「バカンス」することになるのです。
次回に続く。
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▲ベリーニの椅子、Torenide。イラスト:HAL_(クリックで拡大)
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