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コラム

秋田道夫のプロダクトデザイン温故知新 第4回

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黄金のコンパスが描いた美しい奇跡(軌跡)
イタリアンモダン(後半)


デザインの将来に向けて、過去から今に残っているものを探るのも悪くない。
このコラムではモノが大量生産されるようになった草創期から振り返り、
デザインとモノの変遷を捉え直していきたい。
過去には未来へ向けた種子がまだ隠されているかもしれない。


[
プロフィール]
秋田道夫:1953年大阪生まれ 1977年愛知県立芸術大学美術学部デザイン科卒業。
ケンウッド・ソニーを経て1988年に独立。フリーランスのプロダクトデザイナーとして現在に至る。
http://www.michioakita.jp/

※本コラムは雑誌「Product Design WORLD」(2005年ワークスコーポレーション刊)の連載から、
版元をはじめ関係各位の許諾を得て、pdweb用に再掲載しました。原則的に加筆・修正は行っていません。

●機能を突き詰めた「エンゾ・マリ」

わたしが考えるすぐれたデザインというのは、「素材の発見」と「その材料をいかに少なくして機能を作れるか」。そしてそこにそこはかとない「ウイット」のような潤いを差し込めるかという基準です。

前述のベリーニの仕事は「素材の発見」において他の追随を許しません。傑出した発見力と発見者にして最高の「創造主」ですが、先の3つの要素からいえば、すごくシンプルな造型ではあるけれどミニマルでもなく、「ウイット」というものはベリーニには感じ取ることができません。

「3つの要素」を最高に高い時点で、しかも長く大量に生み出し続けているのがエンゾ・マリです。彼はリチャード・サパーと同じ年です。イタリアのデザイナー=富裕階級出身で建築を学んだという定説が日本にはなんとなくあるのですが、彼は家庭が貧しかったため大学に進学せず、「ブレラ・アカデミー」という教育機関でアートを中心に学んでいました。彼の風貌は哲学者のようで、わたしはいつも世間から距離を置いているようでありながら、なぜだかどこにでも首を突っ込むといういささか矛盾したデザイナーだと思っていたのですが、そういう生い立ちが彼をそうせしめているんだということを感じました。いやいや口が悪かろうが気が難しかろうが、そんなことは一切問題がないぐらいに彼のデザインは素晴らしいものです。

彼のデザインの特徴は、機能に対する徹底したリサーチ(掘り下げ)にあります。椅子は何があれば椅子たりうるのか? 棚は何を満足させれば棚の役割を果たすのか? 照明器具とは一体どうあれば照明として役に立つものか?彼の作品にはそういう「物事の始まりを解き明かそうとした痕跡」を多く見ることができます。

大理石の円筒を斜めにカットしただけの花瓶や、ステンレスの板をちょっとひねっただけのペーパーナイフなど、ほかのデザイナーには到底考えつかない「原理性」を持っています。一度見たら忘れられないインパクトがあります。わたしがもっとも好きな彼のデザインは椅子なのですが、それは鉄の細い丸棒を四角いフレーム状にして、その四角い枠を何個も組み合わせることによって「椅子」のデザインになっています。最初に見た時の衝撃は忘れられません。近年「アフォーダンス」(モノ自体がどう扱ってほしいかというメッセージを出していて、説明しなくても人は自然とそのモノと付き合っている状態をいう用語と解釈しています)という言葉が流行しましたが、そんな用語を知らずとも禅宗の和尚様然としたエンゾ・マリ先生は、何十年も前からデザインの重要な要素としてそういった感覚を持っていました。ただマリは、ラジオやテレビ・掃除機といったメカニズムを持った機器デザインはほとんど手掛けていません。

彼がデザインを多く提供した「ダネーゼ」は、アートを愛する2人によって始められました。1956年に作ったこのお店は、世界で最初の「デザインショップ」といえるでしょう。ブルーノ・ムナーリ(Bruno Munari、1907~1998年)という穏やかで紳士なデザイナーの協力を得て、いろいろな名品を生み出しました。灰皿や照明器具、食器、カトラリーなど枚挙に暇がありませんが、ショップの内装やパッケージ、グラフィックなど「すべてデザインされている」お店です。

ムナーリは、本当は多くの誌面を割いてもいい偉大なデザイナーであり、彼の著作には多くのデザインのヒントがあります。特にデザインを教える立場の人に読んでもらいたいものです。ちょっとバウハウスのヨゼフ・アルバースに通じる人物です。つまり、自作を分解しそのプロセスもデザインしたモノをも俎上に上げることをいといませんでした。ただ、わたしがあえて「偏重して」紹介したいのは、やはり「くせものエンゾ・マリ」なのです。

ダネーゼの製品はムナーリとエンゾ・マリのデザインで二分されているのですが、1907年生まれのムナーリと彼より25才も年下のエンゾ・マリの間にどういう交友関係があったのかは、うかがい知ることができません。ただ、いくぶんロマンチックで汎用性に乏しい(乏しいと書くのはつらいのですが)ムナーリより、一見アーティスティックだけれど一般性(ポピュラーさというべきでしょうか)を兼ね備えたエンゾ・マリによって、ダネーゼが世界に普及する成果を上げたと解釈しています。

彼の奥さんはイエラ・マリという有名な絵本作家でもあり、共著でいろいろな素敵な絵本や子供用のおもちゃも生み出しています。それならもっと「幸せそうな」顔をしていても良さそうなものだと、デザインとまったく関係なく思ってしまいます。


   


●企業が果たした役割

イタリアにおけるデザインのすぐれた会社、いや、デザインによって大きな発展を遂げ、また、デザイナーを育てた会社をいくつか紹介しましょう。

先にベリーニで紹介した「オリベッティ」は1908年に設立された、イタリアで最初にタイプライターを製造した会社です。現在でもプリンタ、電卓など電子機器を製造していますが、イタリアデザインはオリベッティとともにあったと言っても過言ではありません。そして「ブリオンベガ」。1960年代から1970年代にかけてデザインに関わった人には、懐かしくてしょうがない名前です。かくいうわたしもいただいたこの会社のカタログを長く大切に持っていました。第2次大戦後の1945年に、もとラジオの修理工だった創業者が起こした電気製品の会社ですが、デザイナーの大胆な起用が当たり瞬く間に世界のトップAVメーカーにのし上がりました。この辺のストーリーはソニーと通じるものがあります。折り畳みのラジオやブラウン管そのもののようなポータブルテレビ、正方形のテレビなど画期的な製品が多く生まれ、それらの製品はニューヨーク近代美術館をはじめいろいろな美術館に収蔵されています。ただ1980年代に入り低価格で高性能な製品の流れに乗ることができず、1992年その歴史に幕を閉じました(2001年に別のメーカーがブランド名を買い取り、いくつかの製品が今でも購入できるようになってます)。

家具の「カッシーナ」や「ザノッタ」、プラスティック製品の家具や日用品ですぐれた製品を生んだ「カーテル」、照明器具の「フロス」なども重要なメーカーです。それらのメーカーに共通するのは「決定権」を持つオーナー社長が自分の感覚でデザインの優劣を判断する目を持ち、リスクを覚悟の上でデザインを独自に判断していたことでしょう。そのブレのない状況がデザイナーの発想の芽を育てたのです。しかしながら、どんどん経営は複雑になり、イタリアといえどもマーケティングという判断基準がポピュラーになって「独善」が通用しなくなるとともに、「デザイナーと経営者の蜜月」も終焉を迎えることとなりました。


 

 

 

●「マルコ・ザヌーソ」の存在

最後に紹介するデザイナーは、マルコ・ザヌーソです。日本での知名度はそう高くないように思うのですが、ベリーニでデザインを知り、エンゾ・マリでデザインの醍醐味を知って、ザヌーソに行き着いたというのがわたしの「イタリアンモダンデザイナー史」なのです。ミラノに生まれミラノ工科大学を出て建築設計をしながら、デザイン雑誌『カサベラ』の編集長も務めるなど経歴、教養、バランス感覚などすべて揃った人物といえるでしょう。写真でもよく笑っています。

バランスがとれているがゆえに、派手でもなく特徴的でもなく、エキセントリックでもなくなんとなく黒子的なのですが、前述のように「たどり着く先」たる人物です。ベリーニが『ドムス』誌の編集長になったのも、ザヌーソに対する憧れがそうしたものかと思えてきます。

彼の代表作の多くは、リチャード・サパーとの競作ということになっています。ゆえに、ザヌーソらしさとサパーのデザインした部分を「分別」する必要があります。ザヌーソと別れてからのサパーの作品はクールで線はどちらかといえば細いものが多いので、もう少し「ふくよかな」造型言語を持った人とザヌーソデザインを解釈しています。きっと彼はパートナーの良さを引き出すことに長けていたのでしょう。ブリオンベガの折り畳みのラジオ、黒い立方体のテレビ、赤い小型のテレビ、世界初のプラスティック成形の子供用のスタッキング(積み重ね)チェア。そして折り畳みの「グリッロ(こおろぎ)」と呼ばれる電話器など、黄金のコンパス賞を取った名作の数々には2人の名前が添えられています。

ちなみに、黄金のコンパス賞の設立にも貢献し、1回目から選定委員を務めています。いい意味で、多分に政治的な色合いの濃い人なのもしれません。

●デジタルの台頭、イタリアデザインの終焉

イタリアンモダンデザインが輝きを放っていたのは、1950年代から1970年代にかけてのことでした。わたしがデザインという世界を知ったのは、多分高校生の時見た大阪万博のイタリア館に飾られていた「スーパーカー」だったと思います。とにかく、自分の生活とは「まったく交わらない夢の世界」の物語でした。

1980年に最初にイタリア・ミラノに行った時、「デザインの王国」と信じていた私の目は、ミラノの街の生活の中に意外なほど「デザイン」がないことに驚きました。ドイツで頻繁に見られるベンチやゴミ箱や公衆電話などの「公共機器」の美しさもなく、フランスで見られる建物の圧倒的な整然さも感じられませんでした。リナシェンテ百貨店も印象になく、当時もてはやされていた「フィオルッチ」のショップには行ったけれど、知らぬ間にリナシェンテの前を素通りしていました。その時「スカラ座広場」に面したガレリアの電器店の店頭を晴れがましく飾っていたのはあのブリオンベガでなく、なぜかソニーのトリニトロンカラーテレビでした。

今回、イタリアのモダンデザインについて書いていて、もうそれこそ、次から次から溢れるようにすぐれた過去の製品が頭の中を駆け巡り、選ぶことに難渋しました。イタリアンデザインに対して日本人は憧れ、そして「抽象的な理想像」を描きすぎていたように思います。イタリアがちゃんとバウハウスの影響を受けたこと、フランスに対してかたくなに影響を拒んだことなどの複雑な感情を持っていることなど、知ろうとしてきませんでした。ただ、ベリーニの時に書いたようにパーソナルコンピュータがアメリカで生まれてから一度もその分野ですぐれた製品を見いだせないこと、デジタルカメラといった光学製品、ウォークマンのようなパーソナルオーディオを彼ら「イタリアモンダンデザイナー」たちが手掛けていたらどんな製品が生まれていたかを考えずにはいられないのです。

フランスにたたずみドイツで羽を休めイタリアで踊り明かした「デザインの神様」は、気紛れで飽きっぽく一所にとどまってはくれません。神様は次にアメリカでしばし「バカンス」することになるのです。

次回に続く。

 

 

 

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▲ベリーニの椅子、Torenide。イラスト:HAL_(クリックで拡大)


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