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コラム

秋田道夫のプロダクトデザイン温故知新 第1回

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やっぱり結局バウハウス(前編)

デザインの将来に向けて、過去から今に残っているものを探るのも悪くない。
このコラムではモノが大量生産されるようになった草創期から振り返り、
デザインとモノの変遷を捉え直していきたい。
過去には未来へ向けた種子がまだ隠されているかもしれない。


[
プロフィール]
秋田道夫:1953年大阪生まれ 1977年愛知県立芸術大学美術学部デザイン科卒業。
ケンウッド・ソニーを経て1988年に独立。フリーランスのプロダクトデザイナーとして現在に至る。
http://www.michioakita.jp/

※本コラムは雑誌「Product Design WORLD」(2005年ワークスコーポレーション刊)の連載から、
版元をはじめ関係各位の許諾を得て、pdweb用に加筆・修正して再掲載したものです。

●まえがきのまえがき

この度pdweb.jpのご厚意で、かつて「プロダクトデザインワールド」誌に連載をしていた「プロダクトデザイン温故知新」をpdwebのコンテンツとして再掲載をしていただけることになりました。

「プロダクトデザインワールド」での連載は2005年のことでした。すでに9年前になります。当然当時の情勢と現在ではプロダクトデザインをめぐる状況はおおきく様変わりしました。

2008年の秋におきたリーマンショックによる経済の停滞。そしてその後携帯電話の有り様をすっかり変えてしまったアップルのiPhoneの登場は、その前年の2007年でした。

それらのおおきな変化が起きる前である2005年はまさにプロダクトデザインが一気に世間の注目を集めている時でした。

デザイン性の高さが注目されて「デザイン家電」という呼称を生んだ生活家電の数々とそのブランド、そしてauのデザインプロジェクトに代表される携帯電話などがデザイン雑誌だけでなく一般の本や雑誌にもおおきく取り上げられた時でした。

そういう「空気」の中で書かれたのが「プロダクトデザイン温故知新」だとも言えます。

考えてみると、pdwebの読者でもあるプロダクトデザインを今学んでいる学生の皆さんは、9年前には製品を使う対象でもなく、その当時の空気を知らずに育ったのかもしれません。

わたしは、再掲載にあたって9年の違いを加味して、今の状態に「翻訳」するために加筆修正をしようかと思いました。

しかし考えてみると「今」がまた9年経過した時に「どうなっているか」は推測できません。そういう変化を考えるとオリジナルのままであることの方が、この文章の役割として相応しいように思いました。

その役割は「過去を知ることの大切さ」です。

時代の空気を知りながらも、過去から未来まで透徹したデザイン哲学を大切にした「時代を超えるもの」をみなさんに作っていっていただきたいという思いがこの文章を書くきっかけです。

オリジナルの連載は4回でしたが、読みやすさを考慮して1つの回を前編と後編にわけて8回の掲載することにしました。たぶん若いみなさんが知らないデザイナーや製品の名前も多く登場してきます。当時を知っている方たちには懐かしくそれでいて意外と知らないお話も出てきます。

正式のタイトルにはわたしの名前が入っています。本コラムには、35年にわたり現役のプロダクトデザイナーを続けている自分の主観や「解釈」があることを予めお断りしなくてはいけませんが、この文章によって、過去のデザイナーや製品に関して、改めて図書館やネットで検索するきっかけになれば幸いです。

プロダクトデザイナー 秋田道夫

2014年3月

   


●はじめに

日本にもプロダクトデザインの時代が来た! と、ここ数年の世間の動向を見ていると感じるわけです。苦節50年というのは大袈裟ですが、その昔わたしが大学の図書館でながめていたドイツ、イタリア、アメリカのデザイン雑誌の数々に、日本のプロダクトデザインが当たり前のように登場するようになってきました。それよりもなによりもまったくデザインに関わっていない人々が「デザイン」という言葉を日常会話にさりげなく使うようになり「製品を買う時の大きな理由」になっているのがすばらしい。

先日、スペイン大使館でプロダクトデザインを紹介するセミナーがありました。素敵な製品やコンセプトを見ていて、スペイン人のピカソが今、青年だったらプロダクトデザイナーになっていたのかもしれないと思いました。今は自由な表現が可能になっていますし、そしてそれが大量に地球規模で普及しています。自分が携わった製品に世界中の知らない町で「偶然出くわす」というのはとても素敵な経験です。そんな「夢のある仕事」を有能な人材が見逃すはずはないと思ったのです。

今世界のプロダクトデザインを担っているのは間違いなくここ「日本」です。カメラ、オーディオ、自動車など市場を席巻していますし、なによりデザインを支えるすばらしいエンジニアリングを持っています。

いいことずくめではありますが、ちょっと心配もあるわけです。それはなにかといえば「デザインの歴史への敬意」や「広範な芸術への造詣」といったものが肝心のプロダクトデザイナーに備わっているのかしら? という不安です。

1年、半年というサイクルで製品が新しくなり、ともすれば日常のデスクワークに終止しがちだと思うのですが、「その道は20年前、あなたの先輩が歩いた道ですよ」と思うデザインが出て来たりします。

「温故知新」。そう、昔のデザインに新しいデザインの可能性が詰まっていること。みなさんが生まれる以前にすばらしいデザインと知恵が生み出されていたことを知ってほしいというのがこのコラムの「コンセプト(概念)」になっています。

本コラムには、多くの人や製品が登場しますが、それについて懇切な説明や写真紹介はあえて省略しています。それはインターネットや書籍でみなさん自身でそれらの人や製品を調べてほしいという願いがこもっています。

新しい知識の「ファイルケース」の背表紙に名前だけはわたしが入れておきました。そのファイルケースに知識という書類をためるかエンプティー(空)のままかは読む側のセンスや意欲にかかっています。しかしプロダクトデザイナーであるわたしは「書類を入れたくなるかっこいいファイルケース」を文字の形で提供しようと思っています。

※プロダクトデザイン。ひと昔前には、インダストリアルデザイン(工業デザイン)という呼び方が量産を前提とした製品をデザインすることの呼び名として定着していましたが、最近になってプロダクトデザインと呼ばれるようになりました。差異に付いて語るのは難しいのですが、ユーザー(使用者)に対する意識がより高くなっているのがプロダクトデザインという捉え方をしています。よってここでは主にプロダクトデザイン表記をしていきたいと思います。

●源流はバウハウス

プロダクトデザインはいつどこで生まれたものなのでしょうか?

イギリスで起こった産業革命と、それに伴う大量生産品の誕生までさかのぼるのが順当かもしれませんが、当時流行していたビクトリア様式の「蔦が絡まったような模様」をまとったミシンやレジスターを「デザインの誕生」とするのには、いささか抵抗を覚えます。

現在のプロダクトデザインと脈絡を持つという意味では、1919年に建築家ワルター・グロピウス(Walter Gropius、1883〜1969年)によってドイツ・ワイマールに開校された造形校「バウハウス」をして「プロダクトデザインは誕生した」というのが一般的な見方でしょう。

1933年にナチスの圧力により閉校に追い込まれ、わずか14年間しか学校として機能しなかったのですが、世界のデザインへの影響力は70年後の今でも強く残っています。

 

 

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▲ワルター・グロピウス

●バウハウスの教師たち

グロピウスが開校にあたって作成したバウハウス宣言には、こう書かれています。

「建築家、彫刻家、画家たちよ、われわれはみな手工作に戻らなければならない! 芸術家と手工作人の間にはなんら本質的な違いは存在しない」

簡単に言っていますが、現在から見ても画期的な考え方だと思います。いや、この思想から現在は「退行」しているとすら言えます。

バウハウスの影響を考える上で重要なことは、生み出された作品や製品デザインだけではありません。いやもっと後世に強い影響を残しているのはその「教育理念」であり、デザインを教える方法論としての「バウハウス方式」は現在でも大いに通用するものを持っています。

グロピウスの言葉に共感して、当時すでに名声を成していたパウル・クレー(Paul Klee、1879年〜1940年)やカンディンスキー(Wassily Kandinsky、1866年〜1944年)などのアーチストが参画したこと自体が、バウハウスの目指した教育の志の高さを証明しています。同時に教鞭をとった有名なそれらの画家たちが絵画、彫刻といった「芸術作品」を分解して、その仕組みを教えるという柔軟性を持っていたということ自体が、それまでの歴史になかった衝撃的な出来事だと思います。通常、自分の作品の勘所というものは教えるものでなく「盗め」というのが師匠と弟子との関係です。アートを学生に伝えるために、過去の名作や自分の作品を「分解」して要素を抜き出し、それを「再現」するという方法論を見いだし伝えたことに、わたしは驚きとともに美術教育の原点を見ます。

色彩構成や立体構成といったものは美術系大学の入学試験や基礎過程につきものですが、そういう今となっては当たり前になった課題のもとは、バウハウスの予備過程でヨハネス・イッテン(Johannes Itten、1888年〜1967年)やヨゼフ・アルバース(Josef Albers、1888年〜1976年)などが学生に課した課題にほかなりません。

イッテンは「色彩論」というその後のデザイン論に多大な影響を及ぼす著作を残しましたが、面白いことに彼が最初にバウハウスで教えていたのは「木炭デッサン」という、旧来からある画材を使った表現でした。彼が重視したのは実は明と暗による「コントラスト」であり、すべてのものは「対比」によって成立していることを学生に認識させるべくカリキュラムが組み立てられていました。その発展した課題の行き着く先に「色彩の対比」があったわけです。これはすごく面白いことです。そんなふうにイッテンが考えていたことを全然知りませんでした。

イッテンは写真からしていかにも聖職者然として(今の建築家に見られるファッションセンスかな?)神秘的な風貌をしていますが、当時の学生にも「カリスマ教師」として絶大な人気があったようです。しかしながら、学校長のグロピウスとはあまりそりが合わなかったようで、数年でバウハウスを去ることになりました(いつの時代も同じようなことを繰り返していますね)。まあ、その別れ方もまた後世に神秘性を高めているのですが。ある意味「バウハウス=ヨハネス・イッテン」という印象がわたしにはあったのですが、改めてその資料を調べ直すとこの別れが結果的に後年バウハウスをモダンデザインの祖となるきっかけにしたのは皮肉な結果です。

仮にイッテンが、そのまま学校に残り学校長にでも就任していたら、ひょっとするとモダンデザインではなくもっと「過去形」の美術よりな学校となり、今では忘れ去られていたかもしれません。

 

 

 

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▲バウハウスの校舎(クリックで拡大)


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