建築デザインの素 第32回
ゆるさが命、バワの建築
「建築デザインの素(もと)」では、建築家の山梨知彦さんに、建築にまつわるいろいろな話を毎月語っていただきます。立体デザインの観点ではプロダクトも建築もシームレス。“超巨大プロダクト”目線で読んでいただくのも面白いかと思います。
[プロフィール]
山梨知彦(やまなし ともひこ)。1984年東京芸術大学建築科卒業。1986年東京大学大学院修了。日建設計に入社。現在、執行役員、設計部門代表。代表作に「ルネ青山ビル」「神保町シアタービル」「乃村工藝社」「木材会館」「ホキ美術館」「ソニーシティ大崎」ほか。 受賞「日本建築大賞(ホキ美術館)」「日本建築学会作品賞(ソニーシティ大崎)」他。 書籍「業界が一変する・BIM建設革命」「プロ建築家になる勉強法」他。
バワの建築に触れる機会を得た。スリランカ建築家協会が、年に1回企画している外国人建築家を数名招待して開催する国際会議に、講演者の1人として招かれたのだ。スリランカと言えば、バワの建築だ。いただいたチャンスに飛びついた。
■バワって何者?
バワとは、アジアンリゾートホテルデザインの元祖にして、インフィニティプールの発明者である、あの熱帯建築家「ジェフリー・バワ」のことである。今や多くの一般雑誌から、「世界不思議発見」といったメジャーなテレビ番組にまで取り上げられ、スリランカ観光の大きな目玉の1つになっている。
いや待てよ。超有名建築家の割には、学生の頃に学んだ教科書の類や、建築専門雑誌にはまったく登場しなかった。知っているようで知らない建築家、一体バワって何者なんだ? そんなわけで、渡航の直前になり、バワに関する数冊の本と雑誌を図書館で借りて、バワについてにわか勉強をしてみた。
■放蕩息子が趣味で始めた建築家
バワは、1919年にスリランカの裕福な家庭に生まれ、法律を学ぶため、イギリスのケンブリッジ大学に留学をした。1939年のことだ。どのくらいリッチだったかといえば、当時のロンドンでロールスロイスを乗り回し、放蕩の限りを尽くしていたというから、相当なものであることが推測できる。
そんな彼が、法律家は向かないなと母国のスリランカに戻り(母親の病気もあり、帰国後しばらくして母は死去)、自分の理想とする南国暮らしの理想卿を創ることにした。まあ、間違いなく金持ちの気まぐれと道楽だったに違いない。やがて趣味が高じて、バワは建築を学ぶため再びイギリスへと旅立った。ケンブリッジにて建築を学び、ホンモノの建築家となって、スリランカに戻り、建築家としてのキャリアをスタートさせる。1957年、バワ38歳の時のことだった。
■バワは、熱帯建築界の千利休か?
もっとも、放蕩息子バワが、ロンドンで真面目にコツコツと図面を描いたり、設計の実務を学んだりするわけがない。調べてみると、出て来るは出て来るは、バワの実務建築家としてのダメダメぶりが。先ず、図面は満足に描けなかったと言われている。特に断面図は、全然描けなかったらしいし、平面図は描けたといっても、方眼紙の上に稚拙なスケッチを描く程度であったらしい。百歩譲って、本当は図面が描けたとしても、放蕩息子は決して図面を描くなんていう地味な作業には手は出さなかったに違いない。こんなところから、バワの実務作業ダメダメ説が生まれたのかもしれない。
しかし、放蕩の日々の中で磨き上げられた鋭い審美眼や趣味が、実務作業は人手を借りながらも、バワならではの作風を確立させしめたことは疑いない。いつの世においても、趣味人は、遊びの中で醸成されるものなのだ。草庵風茶室の創出者である利休だって、建築のプロじゃなかったし、十代より茶の湯に親しんでいた。茶室造りに関して言えば、利休を実務面で助けた多数の大工がいたはずだ。財力で磨いた審美眼や趣味こそが、利休の生命だったはずだ。
バワは、建築家とはいえ、一般的な図面を通して設計を行うタイプではなく、利休のように鋭いセンスで微に入り細に入り現場を指揮して建築を練り上げていくタイプのモノづくりをしてきたのかもしれない。
「バワは、熱帯の利休かも知れない。少し踏み込んで見学をしてみよう」。資料を読み込んでいると、そんな気分になってきた。
■5件見学の予定が、たった2件に
というわけで、最初は晩年の代表作にして、またバワの名を世界に知らしめた「ヘリタンス・カンダラマ・ホテル」だけでも見たらいいな、と思っていた気持ちがメラメラと燃え上がり始めた。とは言っても見学時間は丸1日しか取れないので、スリランカの建築学生にフルアテンドしてもらい、コロンボ周辺にあるバワハウス、バワオフィス、ルヌガンガ、ヘリタンス・アフンガラ、ジェットウイング・ライトハウスの合計5作品を1日で見て回る、スケジュールを組み立てた。
いざ見学の時になると、現実は思うようには運ばなかった。「まずはちょいと離れた、ルヌガンガから」と、ルヌガンガがあるベントータという別荘地帯に車で向かった。ルヌガンガとは、バワが理想郷建設を夢見て1948年に購入し、建築家となり、晩年の1998年まで手を入れ続けた作品で、バワの実験室のようなものの役割を果たしてきた作品だという。コロンボからはちょっと外れるが、近郊のリゾート地、ベントータにあるので、手早く見学を終え、コロンボに戻れるはずだったのだが…この判断は甘かった。
まず、渋滞に次ぐ渋滞の結果、到着は大幅に遅れた。次は、到着はしたものの間が悪く、入場までの間、ゲートで1時間半待たされ、やっと入場できた頃にはホテルを出てから3時間半が経過していた。結局のところ、帰りの渋滞や予約ミスなどが重なり、この日の見学はこのルヌガンガだけに終わり、あとは翌日の宿としていたヘリタンス・カンダラマ・ホテルの2つだけで、バワ建築の見学は完了してしまった。
■「ゆるさ」が命
正直、2つしか見られなかった負け惜しみで言うのだが、どちらも予定外に多くの時間を割いて観ることになったため、見始めた時と時間が経過した後では印象が大きく変わっていった。最初は、あれもこれもと急いでいたのだが、いつの間にか、「俺は何をあくせく先を急いでいるのだ。ここでのんびり、この緩く心地よく流れていく時間と、風と、眺望の中に、身を委ねていればいいじゃないか」。いつの間にやら、そんな気分になっていた。
どちらの作品を見ても、利休の茶室のような張り詰めた空気感を感じることもなく、スカルパを訪れた時のような素材とディテールの織りなすハーモニーに迎えられるわけでもなく、カーンのような圧倒的空間も、シザに見られるディテールが消えることにより浮かび上がる抽象的な素材感もない。むしろ公園の中にある名もない東屋を抜ける風が気持ち良いなとか、偶然立ち寄った名も知れぬドライブインから見た素敵な眺望に触れた時のような、素朴な感覚だけ。
しかし、1時間もその場に座っていると、むしろ素っ気ない景色や、草がボウボウに生い茂った、そのなんともいえない「ゆるさ」が、他の現代建築では味わえないバワ建築の醍醐味なんだなあ、と思えてきた。
よく見れば、植物の刈り込みも、虫や動物や風雨の侵入もきちんとコントロールされてはいるのだが、こうした建築を黒子として支える仕組みやディテールも、利休や多くの現代建築に見られる神経質ともいえる几帳面さに比べると、なんとも見事に「ゆるめ」に納まっているのだ。
「計画」では生み出せないこの「ゆるさの勘所」にこそ、バワの持ち味はある。20世紀を席捲した、機能に根差した計画論を超えるべく、僕らが学ばなければならない何かがそこにありそうだ。そんなことを感じた。
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