建築デザインの素 第29回
東京デザインウィークでの火災事故について
「建築デザインの素(もと)」では、建築家の山梨知彦さんに、建築にまつわるいろいろな話を毎月語っていただきます。立体デザインの観点ではプロダクトも建築もシームレス。“超巨大プロダクト”目線で読んでいただくのも面白いかと思います。
[プロフィール]
山梨知彦(やまなし ともひこ)。1984年東京芸術大学建築科卒業。1986年東京大学大学院修了。日建設計に入社。現在、執行役員、設計部門代表。代表作に「ルネ青山ビル」「神保町シアタービル」「乃村工藝社」「木材会館」「ホキ美術館」「ソニーシティ大崎」ほか。 受賞「日本建築大賞(ホキ美術館)」「日本建築学会作品賞(ソニーシティ大崎)」他。 書籍「業界が一変する・BIM建設革命」「プロ建築家になる勉強法」他。
発言しにくいこと、判断や解釈に戸惑うことであっても、自分の意見をまとめ発信することで、理解を深めていかなければならないこともある。
東京デザインウィークに展示されていた木造のジャングルジム状のオブジェが出火して、尊い命が奪われてしまった事故も、建築のデザインにまつわる仕事をしているものならば、正面に見据え、意見を発信しなければならない事態に違いない。アメリカ大統領選挙にまつわる一連の騒動の陰に隠れてしまった感もあるが、あえて取り上げてみたい。
■事故の概況
現時点までに報道を通して理解した範囲では、事故の概要は以下の通りだ。
・木造のオブジェは、人がその下を通ったり、登ったりといった遊具的な使われ方を想定してデザインされ、作られていた。
・木造であることに加え、おがくずが各所にあしらわれているため、事後となってみれば、きわめて燃えやすいオブジェであった。
・デザイン上は、発熱温度が低いLEDでライトアップされることを想定し、その通りつくられていたが、実際には他の用途に使われていた発熱温度が高い電球によりライトアップされていた。
・現時点での推察は、点灯により温度上昇した電球がおが屑を発火させ、それが燃えやすい構造となっていた全体に引火し、中で遊んでいた男児を炎で包み、焼死させてしまった。
■ソーシャルネット上の声
この時点ですでに、マスメディアでの報道の中でも展示関係者の責任を問う声が上がり始めているが、Twitterなどのソーシャルネットワークでは、不確かな推測をも巻き込み、すでにこの事態はだれの責任であるのかを問う、意見が渦巻いている。
オブジェをつくった学生に当然責任がある。いや学生を指導した教官が建築のプロとして燃えやすさを予見できなかったところに問題がある。出展を許可した大学がそもそも安全性をチェックする仕組みを持たなかったのがまずい。それを言うなら、主催者の安全責任を問うべきだ。などなど。
一方で、この事態を契機に安全性を旗印に、デザインを極度に縛ってしまうことを懸念する声も上がっているが、想像をしていたより小さな声にとどまっているようだ。ポリティカル・コレクトネスが正論を形成する現代においては、安全性とデザインとを天秤にかけることすらが不謹慎なことであると捉えられかねないからであろうか?。
■人命とデザイン
誤解を恐れずに言えば、僕らデザインに関わるものは、それでもあえてデザインと安全を天秤にかけ、自らのデザインを世に問わなければならない宿命にあるといえるだろう。
建築は内に人間を抱え込まなければならない宿命があるから、デザインにあたっては人命に対する配慮が不可欠であり、最優先されるべきである。一方で、完全に安全な建築など存在し得ないこともまた事実。住宅が、人々に住まい暮らす安息と安全与える一方で、地震や火災の際には内部の人々を危険にさらしかねないように、多くの場合、建築はその存在自体が、人々に対して安全にも危険にも、同時に両面に作用せざるを得ない存在なのだ。人命に密接なかかわりを持つ建築という代物をデザインすることとは、唯一無二の正しい答えなど存在しないところで、人間にとってのメリットとデメリットのバランスを世に示し、その責任を取ることといえるのかもしれない。
状況の詳細が分からず、今回の事態を論じることは憶測の域を出ないが、おがくずをまとった木製の構造体は誰が見ても容易に燃えることは自明であり、学生が作ったものとはいえ、その製作、指導、展示、運営に関わった人々はいずれも、建築の存在がそもそも人名と密接なかかわりを持つ存在であることに対して、あまりにも自覚に欠けていたように僕には思われる。人命が失われた以上、法に則った裁きを受けなければならないだろう。
一方で、次の展示に向け、安全論一辺倒で木製オブジェの製作を頭ごなしに否定してしまうのではなく、あるべき安全性のベストバランスを積極的に提示し、世に問うことがデザイナーのあるべき姿だとも思っている。これなくしては、建築のデザインは停滞してしまう。
■僕自身の経験
僕自身も、木材を不燃加工することなく、大型の建築に用いる試みをしたことがある(写真1)。
法に適合した木材の用い方をして、特定行政庁の許可を得ることは当然であるが、それだけでは建築家として不十分だと思った。そこで、建物からの火災時の安全な避難ルートを確保するため、各階にバルコニーを回し、それを地上までつながる屋外避難階段でつないだ。不燃加工をしない木材を使うことで温かみが感じられる建築を経済的に作ろうとするメリットと、燃えやすい木材を使うことにより損なわれるであろう安全性上のデメリットを、建築デザイナーのはしくれとして僕なりにバランスを取り、世に問うたつもりである。
■911が教えてくれたこと
とはいえ、バルコニーの設置は、実は木材を使った建築のために思いついたアイデアではなかった。
2001年、9月11日、アルカイダの則った飛行機がニューヨークの世界貿易センターを突っ込んだあの忌まわしい事件を記憶してない建築デザイン関係者は恐らくいないだろう。あの事件は、僕の建築の安全性に対するスタンスを一瞬にして変えてしまった。おそらく多くの人が記憶しているのは、「パンケーキクラッシュ」と呼ばれている、摩天楼が一気に崩れ去る瞬間であろうか。しかし僕を変えたのは、その少し前の状況だった。
火災が発する煙に巻かれた人々が煙から逃れようと、割れた窓から身を乗り出していた。中にはカーテンウオールから僅かに飛び出したサッシを足掛かりに、外へと逃れようとしている人がいるではないか。やがて、煙と熱気の苦しみから逃れるために、人々が助かるあてもなく飛び降り始めた。「そこにバルコニーがあったなら、少なからぬ人々が助かったのでは」との思いが頭を離れず、以来高層ビルの計画があると、バルコニーの設置をクライアントに働きかけてきた(写真2、3)。
もちろん、状況が許さず、バルコニーを取ることができなかった計画もあるのだが、911の悲劇は、僕の建築に対する人命尊重のスタンスを大きく変えた。もっとも失った命の大きさに比べ、僕が得たものはあまりにも小さく、比べるべきものではなさそうだが。
今回の不幸に際して、多くの若い建築家や建築を学ぶ学生が目を背けることなく、自らのデザインと人命尊重の在り方を考え、果たすべき責任の重さを理解したうえで、自らのデザインに反映していくことこそ、建築のデザインに関わるものがとるべき行動である思っている。
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